中国に渡ってからの15年間、留学から起業に至るまでの道のりを振り返っている。
前回(「こんな僕がなぜか中国人CAと結婚してしまった話」)は、起業の際に背中を押してくれた妻とのなれそめを紹介した。
ここで前々回(「中国でチョコパンに耐えかね副業したらどうなったか」)の話に戻る。張さん(仮名)の猛烈なスカウトに負け、新しく立ち上がった日本語学校で教師をしていたが、さすがに通勤時間往復6時間、給料2000元(当時のレートで約3万円)は無理があった。そこに、さらに給料引き下げの宣告、もう我慢の限界だった。そこで僕はついに決心した、という話だった。
学校を辞めて無職に
結論から言うと、僕は日本語学校を辞めた。
張さん(仮名)からは、「せめて次の先生がみつかるまで待ってほしい」と言われたが、これまでの張さんのやり口を見ていると、どうせ引っ張るだけ引っ張って「まだ新しい先生が見つからないから待ってくれと」と僕を働かせるに違いないので、月末いっぱいで辞めた。
留学生として上海にやってきた僕は、異国の地で無職になってしまった。勢いで辞めてしまったものの、次の仕事がみつかっているわけでもなく、しかも外国だ。すさまじい後悔の念に襲われて、何度も張さんにもう一回電話して「やっぱり戻ります」と言おうかと迷った。
無職である。収入ゼロである。外国である。たったの 1500元でも、ゼロと比べたらら雲泥の差だ。鈍感な僕も、さすがに猛烈な焦りを感じた。正直なところ「このまま上海で大道芸人やって、全然人気なくて、そのまま餓死かな」などと大げさなことも考えた。人間追い込まれると、思考があり得ない方向へ行くことがある。「貧すれば鈍す」いうのを、このとき学んだ。