順調な滑り出しだったが、1997年に状況が一転した。アジア通貨危機が発生したのだ。タイ通貨バーツの暴落を皮切りに発生したこの経済危機は、またたく間にアジア諸国に波及し、各国経済に悪影響を及ぼした。
ミャンマーでも2003年、銀行危機や取付騒ぎが起こり、資本市場の育成に向けた気運は一気に減退した。さらに、2007年には燃料の大幅値上げをきっかけに全国規模で高揚した僧侶による非暴力抗議活動や学生による政府抗議デモを軍事政権が弾圧・抑圧する事態が発生。
これに対し、欧米諸国が経済制裁に踏み切ったことから、証券取引所の設立に向けた機運は一層縮小した。
しかし、そんな逆風の中でも取り組みは続いた。この時期、日本をはじめ、欧米など各国の企業の多くは撤退を余儀なくされた。また、欧米諸国は政府開発援助(ODA)を停止。日本政府は支援は続けたものの、分野は人道支援に絞り、規模も縮小していた時期だ。
証券市場の設立なんて、夢物語のように聞こえただろう。それなのに、なぜ同社は撤退しなかったのか――。
「国家プロジェクトに参加しているんだ、という自負を持っていたためです」と、大和総研アジア事業開発部の杉下亮太部長は、3年半前の本誌のインタビューに答えている(本誌2012年9月号)。
ミャンマーブームに乗って一企業としてやってきて、自分たちの意思で始めた事業だったなら、あるいは自分たちの意思で早期に撤退を決断していたかもしれない。
しかし、ミャンマー政府との約束なのだ、という意識が常にあったからこそ、同社は周囲の企業が撤退する中でも駐在員を置き続け、政府や関係機関との関係づくりを進めた。
それだけではない。1996年に立ち上げられた前出のMSECは、翌97年に木材会社1銘柄の株式の、2007年には銀行1銘柄の株式の店頭販売をそれぞれ開始している。
逆風が続き、資本市場の立ち上げになかなか本腰を入れられない中でも、MSECで細々とでも上場銘柄の店頭販売を続けることを通じて、ミャンマー側への働き掛けと啓発が続けられていたのだ。
オールジャパン事業へ
足踏みを余儀なくされていた証券取引所開設に向けた歩みが、ようやくまた前進を始めたのは2006年のことだった。
同年、ミャンマー政府は資本市場検討委員会を設立、2008年にはこれを引き継いだ資本市場開発委員会が活動を開始したほか、「資本市場開発ロードマップ」も作成された。