長崎の平和祈念像。本来、平和とは独立や自由を伴ってこそ価値がある(資料写真)

「平和」は暴力にもなりうる。最近の日本での安保法制論議を見て、そう感じてしまう。暴力とはもちろん比喩である。暴力的な効果とでも呼ぼうか。より正確に述べるならば、「平和」という言葉の高圧的な叫びが、日本の国民や国家を守ろうとする努力を破壊する政治的武器に使われている、という印象なのである。

 朝日新聞や日本共産党などが先導する安保法制反対の主張がその例証である。この種のキャンペーンでは、「安保法制法案は平和を壊し、日本を戦争に巻き込むことが目的なのだ」という非難が叫ばれる。集団的自衛権の行使容認に賛成する者は「戦争を好む、平和の敵」と断じられる。法案に賛同する政治家の片言隻句を軍国主義とか好戦主義と攻撃する様は“暴力的”とさえも映る。

「平和」とは「戦争のない状態」なのか

 広島、長崎への原爆投下、そして終戦という記念日がある8月は、「平和」というスローガンが日本中を覆うように頻繁に、声高く、あるいは悲痛に唱えられる。だが、その「平和」とは何を意味するのか。

 日本で語られる「平和」は、単に「戦争のない状態」を指すと言ってよい。だが、単に戦争さえなければよいとなると、他国に支配された「奴隷の平和」でもよいことになる。自由も人権も民主主義もない状態でも、戦争さえなければ平和だということになる。

 しかし「単に戦争のない状態」だけを国家の安全保障の目標とすると、国家が国家ではなくなってしまう。一切の軍事衝突(つまり戦争)を禁じると、自国に対する軍事的な攻撃や威嚇にもまったく抵抗してはいけないことになる。