「バンドン会議60周年記念」の国際会議に日本が招待されたことほど、正しい歴史認識を示すものはない。
日本はアジア・アフリカの民族自決や植民地解放に尽力したから初回から招待されてきた。韓国は参加の資格がなく、中国は主催者側の非同盟運動の一員としての参加である。
韓国の知識人さえ、日本が招待される理由が分からなかったようだ。
日韓基本条約の締結交渉以降、多くの補償を獲得するため日本が一方的に搾取したという歴史を捏造し、「日本がやった(良い)ことも認めて欲しい」と言うと、「妄言」(マンオン)として批判する暴挙を繰り返してきたからである。
他方、中国が歴史認識を声高に言い出したのは江沢民時代からである。改革開放で経済が発展する一方で貧富の格差が大きくなり、人民の不満が高まってきた。そこで、歴史の捏造で日本を犯罪国家に仕立て、人民をナショナリズムで団結させる小細工をしてきた。
このように、中韓の歴史認識とは、「史実に向き合う」ことではなく、混乱する内政を鎮めるための方便であり、捏造歴史の追認を日本に迫ることにほならない。
ここでは「自然回復」の視点から中韓の「歴史認識」のひずみを指摘する。
禿山の植林を説いた日本人農学者
明治・大正時代に日本はもちろんのこと、世界を観察して回り、南鳥島の日本領土化や南樺太の領有に関係した人物に志賀重昂(しげたか)がいる。内村鑑三と同級で札幌農学校に学んだ農学士・地理学者で、文筆家でもあり『日本風景論』などを上梓している。
海軍兵学校の練習艦で英国による巨文島(韓国)占領状況や南太平洋諸島における列国の植民地化競争の状況などを見ては警世し、25歳で東京地学協会の終身名誉会員に推される。
34歳で農商務省山林局長に就くが、内閣を批判し懲戒免官、その後衆議院議員となる。日露戦争が勃発すると外交顧問兼ねて通訳として仁川・京城(現ソウル)・旅順の戦場に乗り込み、乃木希典第3軍司令官の知遇を受けて観戦すること約半年に及んでいる。
遺体収容の一時休戦では、15メートルしか離れていない日露の陣地の中央に赤十字旗を立てて、将兵約70名が冗談を交えながらお互いの健闘を称え、飲酒歓談2時間及んだことも披瀝(『志賀重昂全集第5巻』、以下同)している。