歩いても10~20分、自転車なら数分程度のコンパクトな空間です。そんな「子供の小世界」が、大人の目の届かない、ある種のエアポケットになってしまったのではないか?
あまりにも当たり前の街区の、あまりにも狭いエリアで、犯行から「証拠隠滅」までが閉じている。
現地を歩いて感じたのは、むしろこの狭い「子供社会」の生活圏と、そこに張り巡らされた「ライン(LINE)」などの目に見えない情報ネットワーク、そしてそれらとむしろ社会的な距離を置いている「大人社会」との没交渉でした。

そこで想起せざるを得なかったのが「オウム真理教団の閉鎖空間」です。
オウムの閉鎖性には2つの面がありました。1つは、人里離れた上九一色村や富士山総本部など、物理的に隔離された場所の問題。確かにそうした場所でも事件は起きました。
しかし同時に、都会の真ん中にある教団施設、アジトや診療所でも様々な事件がありました。
物理的には広がっているのに、精神的に隔離された集団が起こした病理的事件、そ の最悪のものが、出勤時間帯の都内地下鉄内で引き起こされたサリン事件にほかなりません。
同じ時間と空間を共有しながら、サリン実行犯やテロリストは全く違う閉ざされた心の中で生きている。その小世界の中で、数人が「多数派」を作って空気の流れができてしまうと、それを止めることも、おかしな状況だと気づくこともできなくなってしまう。