先週は、期せずして明らかになったASKAの話での連載になってしまいましたが、本筋のテーマに戻ってお話ししたいと思います。
少し先のことになりますが、7月7日の夕方17時30分から、東京大学哲学熟議第3回「研究倫理と生命倫理・・・STAP細胞問題に端を発して」を行います。
パネリストなど調整を進め、ポータルサイトを準備してまた公開いたしますので、お名前とご連絡先(電子メールアドレス)明記の上、gakugeifu@yahoo.co.jpにお申し込み下さい。国立大学法人の社会還元事業ですので入場料などは不要で、建物管理上、ご来場者の確認のみ行っています。
今回は文学部の教室を予定していますが、参加希望される方の人数によって会場が変わる可能性がありますので、ポータルサイトができましたら、そちらでも告知するようにします。
ちなみにさらに次の哲学熟議は9月7日、東京大学理学部1号館「小柴ホール」にて「震災・津波の科学と防災倫理」のテーマの下、ロバート・ゲラ―先生をはじめ専門家と丁寧に準備を進めています。
アカウンタビリティとは何か?
さて、ここで「研究倫理」とか「生命倫理」さらには「防災倫理」といったテーマを考えるとき、今日しばしば問題になるのが「アカウンタビリティ」という言葉でしょう。で、こういう横文字言葉には注意を払う必要があります。
試しにウィキペディアでアカウンタビリティという言葉を引いてみると、
説明責任(せつめいせきにん、アカウンタビリティー、英:Accountability)
政府・企業・団体・政治家・官僚などの、社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、株主や従業員(従業者)、国民といった直接的関係をもつ者だけでなく、消費者、取引業者、銀行、地域住民など、間接的関わりをもつすべての人・組織(ステークホルダー:stakeholder、利害関係者)にその活動や権限行使の予定、内容、結果等の報告をする必要があるとする考えをいう。
と記されています・・・が、これ、本当にそうなのでしょうか?
明確にこれに疑義を差し挟むクリアな議論があります。山本清・東京大学教授は「アカウンタビリティ」を「説明責任」とするのは明確に誤訳と指摘しています。どうしてでしょうか?