ドイツニュースダイジェスト 20 September 2013 Nr. 962
日本で『本当は恐ろしいグリム童話』がブームになるなど、ここ数年で再び脚光を浴びているグリム童話が昨年末、初版の出版から200周年を迎えた。
グリム兄弟の誕生
グリム兄弟は、その編集者として日本では有名だが、ドイツでは言語学者としてドイツ語の統一に尽力したことで知られている。グリム兄弟は、なぜ童話の編さんに取り組んだのであろうか。その時代背景を追ってみよう。
ヤーコプとヴィルヘルムは、1785年、翌86年に誕生。6人兄弟のうちの長兄と次兄(早くに亡くなった子を除き)であった。
大学進学と教授との出会い
父親は法律家で、シュタイナウの司法官を務めた人物。彼らが生まれたのは、フランス革命のわずか数年前である。
兄弟が思春期に差し掛かった頃、隣国は革命、そして共和制と激しく揺れ動いており、ドイツにもその影響が及んでいたことは想像に難くない。
兄弟が11歳になる頃、1796年に父親が亡くなり、母方の姪を頼ってカッセルに移り住んだが、経済的には困窮していなかった。
兄弟は亡き父の遺志に従い、マールブルク大学の法律学科に進んだ。そこで、歴史法学者のフリードリヒ・カール・フォン・ザヴィニー教授と出会う。
彼が、当時のローマ法を中心とした法体系とは別に、ゲルマン諸民族の習慣法の価値を教え、グリム兄弟の後の人生を決定付けた。
ヤーコプはドイツ語の歴史や文学を研究する道へと進み、兄弟はその後10年にわたり、童話を収集した。
ヴィルヘルムの結婚
1808年に母が亡くなり、1824年には、今まで兄弟の身の回りの世話をしてくれていた妹が司法官と結婚。これを機に、2人は結婚を意識し始めたのであろう。
1825年にヴィルヘルムは結婚するが、ヤーコプが弟から離れなかったため、ヴィルヘルムの妻は生涯2人の面倒をみた。2人の間に生まれた子、ハーマン・グリムは歴史家であり、執筆家であったため、後にグリム兄弟の功績を広めることとなった。
ベルリンへの招へい
1841年にプロイセン王ヴィルヘルム4世により、ベルリンの科学アカデミーに招へいされ、ベルリン大学で教授職に就く。その後、1842年には当時のドイツ最高の勲章を授与された。ベルリン時代の20年間は兄弟にとって、安定した時代であった。
そしてその地で、1859年にヴィルヘルムが73年の、1863年にはヤーコプが78年の生涯を終えた。