でもA社の社長に『独立したい』と言ったとたんに態度が変わりました。もともと『独立を助けてやる』と言ってくれていましたから、しぶしぶ承知はしてくれたのですが、A社の客先に出入りするな、A社の仕入れに出入りするな、A社を辞めたことを言うな等々、様々な条件をつけられました」
「そのときは人生が真っ暗になりました。でも乗りかかった船だし、すでに借金もしているから、だめかなと思いながらも仕入れ先の開拓から始めました。そして、ある会社に相談に伺うと、『保証金を預けたら取引を始めてもいい』と言う係長がいました。前の会社で頑張っていたからチャンスをあげる、と言ってくれました。
この会社は後に東証1部の上場企業になり、その方が代表取締役を務めています。この方に出会っていなかったら、今日の私はなかったでしょう」
「創業当初は、お金がありませんから加工設備を買えない(涙)。素材販売をしながら加工を頼まれた時は加工屋さんに頼む。まあブローカーのようにやっていました。
毎日、朝3時まで働きました。鈑金屋の店先を借りて創業したのですが、そこは舞台装置のようなものを得意にしていた関係で、夜の仕事が多かったので、それに合わせて夜働きました」
創業最初の年は本当に苦しかった。1年分の決算書がないと銀行も金を貸してくれないから、とにかく歯を食いしばって売り上げを立てた。年間売り上げはわずか2000万円ほどだった。
ただ、苦しかったけれど、仕事をするのが楽しかったので「苦労は感じなかったし、今も感じていない」と言う。創業1年目に弟に入ってもらい、2年目に親戚に入ってもらった。3年目は新聞広告で募集して来てもらった。創業4年目くらいから会社らしくなってきた。従業員も5名くらいに増えた。
大手企業顧客、防衛産業に目をつける
加工が本格化したのは5年目1997年から。資金的にも余裕ができたので、とにかくマシニングセンターを買ってみることにした。リースで2台。アルミニウム加工が中心だった。いわゆるITバブルのさなか、携帯電話の基地局のための設備の発注を受け、図面1枚で3000セットというような注文があって、ずいぶん儲かった。2000年、ITバブルが崩壊したときに従業員は9名になっていた。
結婚の時に「30歳までに3世帯住宅、自分の両親と嫁さんの両親と自分たち家族の3世帯が一緒に住める住宅を建てる。しかも30歳までに建てる」と誓い、実現することができた。創業から4年目だった。その後、その4倍ほどの大きさの工場を建てることもできた。
そこまでは順調だったが、ITバブル崩壊でただでさえ売り上げが減っているときに、発注側とケンカした(当時はケンカ早かったから・・・)。勝つには勝ったが、それ以降は注文がもらえないから売り上げはさらに激減。
中小企業は社長の気分で注文の流れが変わってしまう、ということが改めてよく分かった。そこで営業先を大手志向に切り替え、アジアに流れない需要=防衛産業に狙いをつけた。「M電機、T電機、H製作所などに日参しました。顔を覚えてもらうことが大切です。そうしているうちに、材料を納めている会社が倒産したということで、最初はつなぎで発注していただくことができました。『夢のチケットをあげるから、あとは自分次第だよ』ということで口座が開かれ、大手企業の協力工場になることができました