60年安保闘争で全学連が掲げたスローガンには「安保粉砕」と並んで「岸内閣打倒」がある。そこには戦後15年を経てもなお戦争の記憶が生々しく残る国民感情と、戦後財界の思惑が絡み合っていた。

非武装中立へと向かう敗戦国ナショナリズムの発露

 大衆にとっての「安保闘争」は敗戦国ナショナリズムの発露であり、この時、それとは知らず現在まで続く「非武装中立」論の芽が萌したのだとも言える。その象徴が「東條英機戦時内閣の閣僚=岸信介打倒」だった。

 また財界にとっては、旧財閥に代わる戦後財界の地歩を固めるために、旧財閥の象徴である岸を引きずり下ろす必要があった。

 集中連載第4回、第5回は60年安保闘争の意義を当事者の視点から探る。今回は、共産党の全学連批判にしばしば持ち出される右翼・田中清玄との関係と、60年安保闘争の意義が語られる。

 動画では闘争の歴史的意義と、安保闘争の陰で政治への介入を図る財界の思惑を古賀、篠原両氏が語る。(編集部)

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座談会参加者: 小島弘
1932年生。明治大学卒。57年全学連第10回大会より全学連副委員長。60年安保闘争当時は、全学連中央執行委員及び書記局共闘部長。その後、新自由クラブ事務局長を経て、現在は世界平和研究所参与。

古賀康正
1931年生。東京大学卒。東大中央委員会議長等を歴任し、ブント創立の主要メンバーの1人。卒業後は国際協力事業団、岩手大学教授を経て97年に退官。

篠原浩一郎
1938年生。九州大学卒。全学連中央執行委員。60年安保当時は社共同(社会主義学生同盟)委員長。卒業後、機械メーカー等を経て、現在はNPO法人のBHNテレコム支援協議会常務理事。

司会
森川友義  早稲田大学国際教養学部教授。 『60年安保 6人の証言』編著者。

最終ページに60年安保闘争に関わる年表があります。随時、ご参照下さい
60年安保オーラルヒストリー(その1)(その2)(その3)(その4)(最終回

全国で580万人に達した安保反対デモ

森川 この60年安保のこの6月というのは、全学連があって、全学連の中でもブントがあって、革共同があって、旧森田派がいて。他方、共産党や下部組織の民青もまた60年の安保闘争に参加しているわけですね。

 それから社会党総評系というものが別にあって、これも参加しています。そのために全国で580万人が安保反対のデモに参加しました。

 そのほかに特筆すべき勢力として、田中清玄*1がいたと思いますが、どういう形で絡んでいたのかをお訊きしたいと思います。

 また、岸退陣というものは最初から全学連の目標としてあったわけじゃないですよね。誰かが相乗りしたっていうか、そういう勢力もあったわけですよね?

小島 1つは新しい財界のリーダーですね。戦後すぐ、今里広記*2なんかそうなんだけど、当時終戦の時は36歳くらいで。

 戦後に三井、三菱といった財閥系がパージされて、それに代わって新しく出てきたのが「財界の四天王」(小林中*3、水野成夫*4、永野重雄*5、櫻田武*6)と言われる連中で、彼らがだいたい30代の後半から40代の半ばなんですよ。

 彼らには、岸が政治の主導権を長い間取ると、旧財閥がまたぞろ勢力を持ってくるという危機感があったようです。

*1=田中清玄(たなか・きよはる、通称、せいげん)。1906~1996年。戦前の日本共産党中央委員長。転向後には実業家、右翼活動家となる。清玄の活動については『田中清玄自伝』(田中清玄・大須賀瑞夫著、ちくま文庫)に詳しい。

*2=今里広記(いまざと・ひろき)。1908~1985年。元日本精工社長。

*3=小林中(こばやし・あたる、通称、こばちゅう)。1899~1980年。元日本開発銀行総裁、元アラビア石油社長。

*4=水野成夫(みずの・しげお)。1899~1972年。元経済同友会幹事、元産経新聞社長、元フジテレビ社長。

*5=永野重雄(ながの・しげお)。1900~1984年。元日本商工会議所会頭、元新日本製鐵会長。

*6=櫻田武(さくらだ・たけし)。1904~1985年。元日経連会長、元日清紡績社長。