今年は1960年に日米安全保障条約が改定されてから50年目の節目に当たる。もともとの日米安全保障条約は51年にサンフランシスコ平和条約が締結された際に日米間で同時に締結され、それが60年に改定を迎えることとなった。

日本で燎原の火のように広がった反政府、反米運動

 この安保改定を巡っては、日本中で反対運動が巻き起こった。全国の大学運動に火がつき、労働者や多くの市民を巻き込んで、安保反対と反米運動が日本中に燎原の火のように広がっていった。

 学生を中心とするデモ隊が国会に突入したり、米軍の旧立川基地の拡張に反対してデモを繰り返し柵を壊して基地内に突入したりした(砂川闘争)。また、当時の東京国際空港(羽田空港)では、来日した米国の大統領報道官をデモ隊が取り囲み、報道官が米海兵隊のヘリコプターで救出されるといった事件も起こした。

 しかし、こうした闘争もむなしく1960年6月19日、改定された安全保障条約が国会で承認され(参議院の議決はなかった)、施行されることとなった。

 この60年安保闘争は、10年後の70年安保闘争とともに戦後日本の歴史の中で、空前の反政府、反米運動となった。

 60年安保からちょうど50年目を迎えるに当たり、当時の安保闘争に加わった学生闘志たちに、その時を振り返ってもらい、安保闘争とは何だったのか、そしてそれがその後の日本にどのような影響を及ぼしたのかを議論した(編集部)。

60年安保オーラルヒストリー座談会。左から小島弘氏、古賀康正氏、篠原浩一郎氏、右端が司会の森川友義・早稲田大学教授(撮影・前田せいめい)

小島弘
1932年生。明治大学卒。57年全学連第10回大会より全学連副委員長。60年安保闘争当時は、全学連中央執行委員及び書記局共闘部長。その後、新自由クラブ事務局長を経て、現在は世界平和研究所参与。

古賀康正
1931年生。東京大学卒。東大中央委員会議長等を歴任し、ブント創立の主要メンバーの1人。卒業後は国際協力事業団、岩手大学教授を経て97年に退官。

篠原浩一郎
1938年生。九州大学卒。全学連中央執行委員。60年安保当時は社共同(社会主義学生同盟)委員長。卒業後、機械メーカー等を経て、現在はNPO法人のBHNテレコム支援協議会常務理事。

司会
森川友義  早稲田大学国際教養学部教授。 『60年安保 6人の証言』編著者。

最終ページに60年安保闘争に関わる年表があります。随時、ご参照下さい
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