中川昭一さん(56)が2009年10月4日(月)午前8時すぎ、東京・世田谷下馬の自宅2階でうつ伏せとなって死んでいるのが見つかった。実際に死んだのは前日、3日の午後11時頃だったらしい。私は昭一さんが2月のローマでの “朦朧会見” 以来、これは危ないのじゃないかと心配していた。「やっぱり、でも若すぎた」とつくづく思った。
なぜなら、父上の中川一郎氏が57歳の時、自民党総裁選で惨敗して数カ月後の1983年正月に札幌で「首を吊って」死んだからだ。当時、初めは心筋梗塞と発表されたが、まもなく「自殺」であることがわかった。そうした事情があってか、死んだその日に遺体を東京の自宅に移し、なんと翌日には火葬までしてしまった。あの時はびっくりした。そうしたことが死んだことについて様々な疑惑、憶測を呼び、いまだに「怪死」の域を完全には出ていないありさまだ。私もなぜあの中川一郎氏が自ら首吊りで死んだのかわからないでいる。
昭一さんは朦朧会見に加え総選挙(2009年8月30日)での落選により心身共に疲れ切って、まさに朦朧とした状況の中で死んだと思う。首吊りとか服毒や飛び降りなどの手段はとらなかったものの、朦朧会見から落選までの半年は、失意と落胆、自己嫌悪とそれらがもたらす食欲不振、内臓不調それに酒が大っぴらに呑めなくなった苦痛、それらを抑えようとしての睡眠薬、風邪薬、鎮痛剤の副作用が相乗作用となって、父上同然、毎日毎晩が朦朧状態の連続となり、死へ至ってしまったのではないかと思う。
朦朧状態の時は自分の意志は殆どなくなってしまっているといってよい。そこで私は財務相・金融相を辞任してから昭一さんに手紙を書いた。内容は「ともかく次の選挙のことは考えずにゆっくりしてほしい。焦ったり、自己嫌悪に陥ったり、あるいは挽回しようと力まないように」というものだった。公私ともに無理が過ぎて疲労の積み重ねになれば朦朧状態となって自分を見失う。これは私個人の体験にも根ざすものなので参考までに書かせてもらった。私としては「選挙は一度休んで出直した方がいい」というおもいだった。だが、まわりや地元のこともあり、本人としては選挙を戦い抜いて “みそぎ” をしたかったのかもしれない。
昭一さんは病院で書いたという手紙(返信)をくれた。それはひと言でいえば「父のことをもっと知りたいし話したいので近いうちに海野さんに会いたい」「頭の中を解凍して自分が何をなすべきかを考えたい」というものだった。しかし、待っていても連絡はなく、そのうち選挙になってしまった。思うに、ひと休みして、まず心身をリフレッシュした方がよい、という私の論はその後、昭一さんのまわりの状況に合わなくなってしまい、私と会えば選挙への気持ちが萎えてしまいそうだと考えたのではないだろうか。