「北海道のヒグマ」中川一郎氏

 父一郎氏は北海道のヒグマと綽名されるほど体も大きく、言動も行動も豪放そのものにみえた。しかし、神経は細かく繊細そして人なつっこく正直で純情まる出しの人だった。逆の言い方をすると権謀術策が渦巻き、離合集散、裏切り、下克上、足の引っぱり合いが平気で横行する政界には初めから向いていなかったのではないかと私はつくづく思った。「自殺」と聞いてからはその感じを一層強くしていた。

 そして息子の昭一さんは東大卒・エリート銀行マンという毛並みの良さだけに一郎氏以上に真面目で、逆境にはひとたまりもなかったということではないか。

 父一郎氏も息子の昭一さんも、ともに最初から政治家を目指していたわけではなかった。その点が他の政治家と大きく違うところだと思う。一郎氏は大野伴睦氏(元自民党副総裁)が北海道開発庁長官の時、予算査定を待つ間、酒を呑んで眠ってしまい「酒の呑みっぷりがいい」ということで大野氏が自分の秘書に取り立てて政治家になったといわれる。

 昭一さんはエリートでお坊ちゃまだったが父が急死して、当時一郎氏の第一秘書だった鈴木宗男氏(現衆議院議員)が選挙に出馬する構えだったため日本興業銀行を辞めて政治の世界へ足を踏み入れた。この背景には鈴木秘書とかねてから確執のあった一郎氏の貞子夫人の「意地」が昭一さんの背中を強く押したといわれる。一郎氏は私たち記者には「政治家は世襲してはいけない」と世襲反対を時々表明していた。

 親子2代、どうしてもなりたくてなった政治家ではないだけに極論すれば政治の世界に充分馴染めず、真面目で正直、人おもいという本来なら人間の美点が、却ってマイナスにさえ働き、疲労と悩みが重なると酒に逃げ込み、睡眠薬常用となった。そして朦朧状態が常態とさえなり、死への引き金となっていった。

 一郎氏は1983年正月(1月9日)、昭一さんは2009年10月3日その症状が頂点に達し、悲劇を生む結果となった。一郎氏が役人のままでいたら、昭一さんが銀行員のままであったなら、また別の暮らし方、過ごし方があったのかも知れない。

 昭一さんは思うに、一生かけてする仕事を56歳までに済ませてしまい、一生分の「運」を使い果たしてしまった感じだ。父を目標に、保守による日本の国家の健全運営を目指し、真・保守研究会という40人のグループもつくり、また経済面でも一流の知識と経験を身につけており、父親を遥かに超えた大政治家への嘱望が強かっただけに残念至極この上ない。

 もう、これ以上の悲劇は繰り返してほしくない。私自身、昭一さんの死以降、その後遺症にとりつかれ、寝ても覚めても頭から離れない。私もいまや朦朧の中に居る気がする。