案の定、選挙ではお詫びの連続だったし健気にも八面六臂の活躍を見せた郁子夫人(50)に比べ昭一さんは今ひとつ気分が乗らず沈みがちに見えたが如何か。

 落選後にも私は手紙を書いた。うつ気味な人に激励は禁物だけに、つとめて気を遣いながら軽く負担にならない程度の言葉で励ましの意味をにじませた。しかし、返事はなく、代りに「急死」のニュースが届いたのだった。通夜で郁子夫人は「海野さんにはいつも手紙をいただいて・・・」とうつ向いた。初めの手紙は夫人の他長女の明美さん(23)にも昭一さんは読ませたという。

G7、あらゆる手段を断行して金融システム維持で一致

父をはるかに超えたが・・・〔AFPBB News

 昭一さんは小泉内閣以来、農水相、経産相、自民党政務調査会長、財務相・金融相と重職を5、6年の間に歴任し、あとは総理が残るだけという出世頭だった。父の中川一郎氏は農水相と科技庁長官くらいしかならず自民党の三役さえもなれなかった。その意味では、父をはるかに超えていた。

 この数年、昭一さんはインタビューのつど私に「自分もオヤジの歳に近くなってしまって」とか「私の政治の原点はなんといっても中川一郎ですからね」とこちらが訊きもしないのに父親のことを口にしていた。一郎氏は「自殺」だったのだから歳をいちいち気にしなくてもよいのにと訝かったものだ。そのうち段々と疲労の蓄積がみえてきて、酒癖の話も評判になってきた。

 ある時のインタビューで、見るからに疲れ切って顔色も悪く、こちらの問いに対し、出てくる答えも滞りがちの上、なにを思ったか、カメラマンに「ちゃんと撮れ! こっちはこれでも意識してポーズをとっているんだから!」といきなり怒り出した。そして「もう止めろ! 写真はいい!」と怒鳴り散らした。派閥の会長代理として10分刻みで早朝から来客を捌いていたせいか、焦ら立ちは相当なものだった。私の前でこんな態度を見せたのは初めてだった。

 私は中川一郎氏が代表だった青嵐会を早くからずっと担当し、現役時代は記者の中でも古手となっており、そのことは昭一さんもよく知っている。初出馬の時も「いろいろ教えて下さい」と話していた。それだけに私に対してはその後もずっと一目置いた対応をしてくれていた。「疲れと酒と睡眠薬」を痛感したひと幕だった。