57年前の9月23日、静岡県出身の1人の漁船員が亡くなった。久保山愛吉さん、当時40歳。久保山さんが乗っていた遠洋マグロ漁船、第五福龍丸は1954年3月1日、南太平のマーシャル諸島近海にいて、米国が実施した水爆実験にたまたま行きあわせてしまった。
原水爆禁止運動の原点となった第五福龍丸事件
爆発によって砕かれ上空から降り注いだ死の灰(砕かれた珊瑚など)を浴びた久保山さんら23人の乗組員は全員が被曝、そのうち最年長だった久保山さんは、妻と3人の子供を残して、入院中の国立東京第一病院で亡くなった。
この“核被害”は、ビキニ事件あるいは第五福龍丸事件と呼ばれ、国内外に大きな衝撃をもたらした。
「こんなことじゃ死ねない」と言っていた久保山さんの死は、広島、長崎を思い起こさせ、原水爆禁止運動の原点になった。
事件後、紆余曲折を経て、第五福龍丸の船体は東京・夢の島にある「第五福竜丸展示館」に保存され、いまも核被害とはどのようなものかを訴えている。
核被害はなにも日本だけの問題ではないが、残念ながらいま我々は、「3.11」の原発事故によってまたしても核被害に直面し、原発、核問題を考え直すことになった。
原発事故の風評被害に対する教訓
その内容は放射線被曝、エネルギー政策など多岐にわたっているが、このなかでとくに放射線、放射性物質による風評被害、原子力利用の是非に関する議論や原発に反対する運動のあり方などを考えるとき、第五福龍丸事件で乗組員とその遺族が受けてきた負担を、教訓としてとらえておくべきだろう。
とはいっても事件は57年前のこと、一隻の漁船をめぐることだけにもうほとんど記憶にない方や、この事実に触れることがなかった若い方もいるだろう。そこで事件そのものをまず振り返ってみる。
1954年3月1日未明、 南太平洋マーシャル諸島近海で操業していたマグロ延縄漁船、第五福龍丸(140トン)は、米国の行った史上初の水爆実験により死の灰を浴びた。
「西からおてんとうさんが上がったよ」という当時のある乗組員の言葉にあるように、操業中の彼らのなかには、爆発の光を不思議に眺めていたものがいる一方で、「ピカドン」だと原爆を直感したものがいた。