東日本大震災がきっかけとなった日本人のメンタリティーの大きな変化の1つとして、「これまで疑っていなかったことを、疑わざるを得なくなった」ということが挙げられるだろう。
例えば、原発に関する政府や東京電力の「隠蔽」とも取れる情報公開の仕方。さらには、「15%の節電」という目標値の根拠のなさや、備蓄電力の有無に関する曖昧な説明。もっと言うと、義援金が被災地に適切に行き届いていなかった、などの問題もある。
「おいおい、今まで言っていたことは何だったの?」と、子供でも疑ってしまうような話がここ数カ月相次いだ。
震災後明らかになった「世の中ウソだらけ」
こういうものが続々と出てくると、「これは氷山の一角にすぎないのでは?」と思ってしまうのが常識的な反応だろう。いかに今まで本当のことを知らされていなかったか、ということが明らかになった。
人間はそういう環境に置かれると、疑念や不信感が渦巻くだけでなく、「自分が知らされていない」ことでモチベーションの低下を招く。本当に節電なんてする必要あるのか? 募金に協力する必要があるのか? そう思い始めると、善意の気持ちがあっても行動につながらなくなるおそれがある。
メディアに関してもそうだ。様々な識者がテレビに出てきて「本当はこうだ」とコメントする。一体、誰が本当のことを言っているのか分からない。そういうコメントを聞き、また、ネットで飛び交っている情報に接するうちに、「テレビニュースも背景に誰かの何らかの意図があり、事実を伝えていないのではないか」と懐疑的になってしまう。
実際の例を挙げるときりがないが、2011年はマスコミの情報の信頼性が決定的に崩壊した「記念すべき年」になったのではないかと思う。
ただしこの変化は、情報の送り手側に悪意を持った人が今年いきなり増えたというわけではない。情報の受け手である我々に知恵がつき、今までぼんやりと抱いていたマスコミへの不信感が確実なものになった、ということだろう。そういう意味では、今年でなくてもいつかは起こり得る事態だったのかもしれない。