2024年3月、大丸松坂屋百貨店やパルコを傘下に持つJ.フロント リテイリング(以下JFR)で、歴代最年少となる48歳で社長に就任した小野圭一氏。出身の大丸では社長も店長も未経験ながら、JFRグループ全体を見る俯瞰力や胆力が認められて抜擢された。その経営手腕に注目が集まる小野社長のインタビューの模様を2回にわたってお届けする。前編では、大丸入社の経緯から、キャリアを積む中で訪れた大きな転機について話を聞いた。(前編/全2回)
コミュニケーション力が磨かれた大丸梅田店での販促業務
──就職先に大丸を選ばれた理由は何ですか。
小野圭一氏(以下敬称略) 父親が大丸に勤めていたことが大きかったですね。就活時、すでに父は他界しておりましたが、兵庫県出身ということもあって、幼少の頃から大丸神戸店にはよく連れていってもらいました。また、大学を卒業した1998年当時は就職氷河期でしたので百貨店以外の就職説明会にも行きましたが、結果的に縁があって大丸に入社しました。
──小野さんが就活をされていた時代は、創業家社長から奥田務社長(当時。現特別顧問)にバトンタッチし、大胆なリストラと新たな事業展開を同時並行で進めていく起点になった頃でした。そうした改革機運の空気は入社後に感じましたか。
小野 最初の配属は大阪の大丸梅田店でしたが、当時は大きな改装準備に入っていた時期で、梅田店をアップデートしていく過渡期のタイミングでもありました。会社全体としても、2003年の大丸札幌店の出店に向けて開業準備室ができ、梅田店から札幌店へ異動の内示が出た人も少なくなかったですし、人事制度改革を含めて、痛みを伴いつつも将来に向けて必要な変革がその時期に行われていたことは覚えています。
──会社が大きく変わっていく過程で、小野さんは店の最前線でどんなことを学びましたか。
小野 入社時、私はネクタイなどの紳士洋品売り場に配属になったのですが、2年半で販促の部署に異動しました。それまで所属していた紳士服飾部の販促担当として、売り場では自分よりも上の立場だったマネジャー級の人たちに対しても販促方針の指示をしなければいけない立場になりました。
ただ、当時は若気の至りで、目上のマネジャークラスにダメ出しをすることも多かったので生意気に見られたようで、まともにコミュニケーションを取ってもらえなくなりました。どうしたら話を聞いてもらえるのか、どうやったら納得してもらえるのかと、ひたすら考える日々を過ごし、ある人には理詰めで、ある人には浪花節で向き合っていきました。
販促チームには2005年まで4年ほど在籍しましたが、そこで鍛えられ、コミュニケーション力が養われた気がします。
梅田は競合百貨店との競争が激しいエリアですので、資金余力で劣る部分は知恵でカバーしようと、使えそうなアイデアは何でも使いました。商いのネタを貪欲に探し、世の中のトレンドも含めて物事を俯瞰して見ていかないと、お客さまに足を運んでいただける企画がなかなか実現できませんので、そこも大きな学びになりました。