日本産業史きってのパトロンとしてその名を残す、CSK(現SCSK)創業者の大川功氏。その個人資産は一時5000億円にのぼるとも言われていた。企業設立時が42歳、亡くなったのは74歳。わずか30年で、どうやってこれだけの私財を築いたのか。
『ウォークマン』やスマートフォンの登場によって、好きな音楽がいつでもどこでも楽しめる。宅配便を使えば大半の地域に翌日、荷物を届けることもできる──。こんな当たり前の生活は、一昔前には思いも寄らないことでした。それを可能にしたのは、日本企業史に名を刻む経営者の並々ならぬイノベーションへの執念でした。本特集では、日本人のライフスタイルを変えた「変革者たち」の生き様に迫ります。
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次々と倒産する中小企業を見ながら肝に銘じたこと
当連載の前編(「武富士、アスキー、セガ…日本の実業界における『最大のパトロン』だったCSK創業者・大川功の経営観」2024年9月20日公開)で、CSK(現SCSK)創業者の大川功氏は戦後の日本産業史に残るパトロンだと書いた。
ソフトバンクグループ(SBG)、アスキーなど、日本のIT黎明期のベンチャーをサポートしただけでなく、セガ・エンタープライゼス(現セガサミー)に対しては1350億円の私財を投じた。それ以外にも赤坂花街のパトロンであり、大川情報通信基金を設立、IT業界の次代の人材発掘にも力を入れた。
また故郷が阪神大震災で傷ついた時は10億円を寄付している。さらに1998年にはマサチューセッツ工科大学(MIT)にも当時のレートで35億円を寄付し、MITは「未来の子どもたちのための大川センター」を立ち上げた。
大川氏は1926年生まれ。CSKの前身である「コンピュータサービス株式会社」を設立した時には42歳になっていた。亡くなったのは2001年だから、74歳の時。その間にどうやって資産を築き上げることができたのか。
大川氏の前半生は苦労の連続だった。生家は大阪・船場の婦人子供服地卸商。大川氏はその次男であり、小さい頃から家業を手伝い客の相手をしていた。ただし子どもの頃から病気がちで、中学(現在の高校)時代には1年間休学もした。その後、早稲田大学専門部工科(現早稲田大学理工学部)を卒業するが、今度は肺結核を罹患し、さらには虫垂炎の手術の予後が悪く、8年間、闘病生活を送る。
この間、大川氏は読書に明け暮れた。そして新薬・ストレプトマイシン(抗生物質)のおかげで結核も快癒、ようやく健康を手に入れる。大川氏のビジネスマン人生はここから始まる。
最初は兄の経営する会計事務所の手伝いから始まった。会計のことは何も知らなかったが、独学と実地で学んでいき、その知識は税務署員からも感心されるまでになったという。そこで得たのは会計スキルだけではない。クライアントの中小企業は財務基盤が弱く、倒産するところも多かった。その悲劇を見ながら大川氏は、「会社は絶対につぶしてはいけない」と肝に銘じる。後年の企業支援の原点はそこにある。
その後、大川氏は独立し、友人とタクシー会社を立ち上げる。経営はそれなりに成り立っていたが、規制が多い業種なこともあり、大川氏にとっては「何かが違う」と思う毎日だった。そのため数年で会社を手放し、再び兄の会社を手伝うことに。そこで出会ったのがコンピューターだった。