「ファミコン」およびその後継の「スーパーファミコン」で家庭用ゲーム機の覇権を握った任天堂。しかし任天堂が開拓した市場を狙って、ソニーやマイクロソフトといった巨大企業も参入した。その資金力、技術力の前に任天堂の天下は風前の灯にも思えたが、それでも今なお存在感を保ち続けているのは、事実上の創業者である山内溥氏の、「餅は餅屋、ゲームはゲーム屋」というプライドと恐怖心があったからだ。
社会現象となった「ファミコン」「スーファミ」人気
早稲田大学在学中の1949年に23歳の若さで任天堂社長に就任した山内溥氏(1927─2013年)は、トランプ・花札の会社を「ファミコン(ファミリーコンピュータ)」の会社へと生まれ変わらせた。
まだトランプが売れていた時代、山内氏はディズニーキャラクターを使った「ディズニートランプ」を発売して大ヒット、日本一のトランプメーカーとなった。
しかしディズニートランプが下火になった時に山内氏は、「われわれが扱っているのは生活必需品ではないのだから、市場があっという間になくなるかもしれない」という恐怖心を覚えたことは前編(「一時は経営危機に陥ったファミコンの父・山内溥が『ハードは赤字で構わない』と利益度外視の価格設定を貫いた理由」2024年6月13日公開)にも書いた。
そしてこの「必需品ではない」という恐怖心こそが、その後の山内氏の行動基準となり、任天堂をゲーム業界の覇者へと押し上げる原動力となった。
1983年、任天堂はファミコンを発売。大ヒットを記録し家庭用ゲーム機の業界地図を塗り替えた。累計販売台数は世界で6000万台。それまでの記録が米アタリ社のゲーム機の1000万台だったことを考えると、ファミコン人気がどれだけすごかったかが分かる。
ファミコンは社会現象となり、「ドラゴンクエスト」など人気ソフトの発売日には、ゲーム販売店に徹夜組の長い行列ができた。また「子どもがゲームばかりやっている」との親の相談が増え、この問題は国会でも取り上げられた。お正月ともなれば、お年玉を握りしめた子どもたちがゲーム売り場に殺到した。
1990年には後継機として「スーパーファミコン(以下スーファミ)」を発売する。心臓部であるCPU(中央演算処理装置)はファミコンの8ビットから16ビットへと進化させ、表現能力は格段に向上した。
問題は、ファミコン用ソフトはスーファミでは使えないことだった。そのためスーファミを買った人たちは、一からソフトをそろえなければならなかった。しかもスーファミ本体の価格は2万5000円、ファミコン発売当時の価格より1万円以上高かった。
それでもスーファミは売れた。累計販売台数は約5000万台とファミコンには及ばなかったが、ハード、ソフトともにファミコンより価格が高かったこともあり、任天堂の業績はファミコン時代をはるかに上回った。
1985年のプラザ合意で円高が進行した。円高不況を押さえるために日銀は公定歩合を下げるとともに市場に資金を供給した。これによりバブル経済が発生し、国内は空前の好景気に賑わうが、輸出産業にとっては円高の影響の方がはるかに大きかった。
1990年代に入るとバブル経済が破裂し国内消費は低迷、それでいて円高は続いたため、電機メーカー各社の業績は悪化したが対照的に任天堂は業績を伸ばす。そのため1993年度には、エレクトロニクス関連産業の中で任天堂が利益トップに立ち、日本を代表する企業のひとつとなった。