任天堂の中興の祖、山内溥氏(撮影:横溝敦)とスーパーファミコン(写真:seeshooteatrepeat/Shutterstock.com)

「ファミコン」およびその後継の「スーパーファミコン」で家庭用ゲーム機の覇権を握った任天堂。しかし任天堂が開拓した市場を狙って、ソニーやマイクロソフトといった巨大企業も参入した。その資金力、技術力の前に任天堂の天下は風前の灯にも思えたが、それでも今なお存在感を保ち続けているのは、事実上の創業者である山内溥氏の、「餅は餅屋、ゲームはゲーム屋」というプライドと恐怖心があったからだ。

本稿は「Japan Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2024年7月16日)※内容は掲載当時のもの

社会現象となった「ファミコン」「スーファミ」人気

 早稲田大学在学中の1949年に23歳の若さで任天堂社長に就任した山内溥氏(1927─2013年)は、トランプ・花札の会社を「ファミコン(ファミリーコンピュータ)」の会社へと生まれ変わらせた。

 まだトランプが売れていた時代、山内氏はディズニーキャラクターを使った「ディズニートランプ」を発売して大ヒット、日本一のトランプメーカーとなった。

 しかしディズニートランプが下火になった時に山内氏は、「われわれが扱っているのは生活必需品ではないのだから、市場があっという間になくなるかもしれない」という恐怖心を覚えたことは前編(「一時は経営危機に陥ったファミコンの父・山内溥が『ハードは赤字で構わない』と利益度外視の価格設定を貫いた理由」2024年6月13日公開)にも書いた。

 そしてこの「必需品ではない」という恐怖心こそが、その後の山内氏の行動基準となり、任天堂をゲーム業界の覇者へと押し上げる原動力となった。

 1983年、任天堂はファミコンを発売。大ヒットを記録し家庭用ゲーム機の業界地図を塗り替えた。累計販売台数は世界で6000万台。それまでの記録が米アタリ社のゲーム機の1000万台だったことを考えると、ファミコン人気がどれだけすごかったかが分かる。

 ファミコンは社会現象となり、「ドラゴンクエスト」など人気ソフトの発売日には、ゲーム販売店に徹夜組の長い行列ができた。また「子どもがゲームばかりやっている」との親の相談が増え、この問題は国会でも取り上げられた。お正月ともなれば、お年玉を握りしめた子どもたちがゲーム売り場に殺到した。

 1990年には後継機として「スーパーファミコン(以下スーファミ)」を発売する。心臓部であるCPU(中央演算処理装置)はファミコンの8ビットから16ビットへと進化させ、表現能力は格段に向上した。

 問題は、ファミコン用ソフトはスーファミでは使えないことだった。そのためスーファミを買った人たちは、一からソフトをそろえなければならなかった。しかもスーファミ本体の価格は2万5000円、ファミコン発売当時の価格より1万円以上高かった。

 それでもスーファミは売れた。累計販売台数は約5000万台とファミコンには及ばなかったが、ハード、ソフトともにファミコンより価格が高かったこともあり、任天堂の業績はファミコン時代をはるかに上回った。