世界中にその名を知られている「NINTENDO」。家庭用ゲーム機の市場をつくった会社だ。しかし1983年に「ファミリーコンピュータ」を発売する直前までは、花札やトランプを主力製品とした京都のローカル企業に過ぎなかった。それを大きく生まれ変わらせたのが、22歳にして社長に就任した山内溥氏(1927─2013)だった。
家業を拡大させた「プラスチックトランプ」の大ヒット
京都に本社を置く家庭用ゲーム機メーカー、任天堂。社名は「運を天に任す」に由来する。祖業は花札の製造・販売。博打に使われる道具を作っていたからこその社名である。
1889年創業だから今年で創業135年となる。創業者は山内房次郎氏。その後、娘婿の山内積良氏が2代目社長となる。その息子は本来3代目となるはずだったが、妻子を置いて出奔、積良氏は孫の面倒を見る羽目になった。その孫こそ、本稿の主人公であり、任天堂中興の祖、そしてファミコンの父・山内溥氏だ(以下・山内氏)。
山内氏は戦後、早稲田大学専門部法律科に入学する。しかし在学中の1949年、祖父・積良氏が病に倒れたことで、弱冠22歳にして社長に就任することになった。そこから2013年に亡くなるまで、山内氏の60年を超える経営者人生が始まった。
当時の主力商品は花札にカルタ、そしてトランプ。経営は安定していたが、家業に毛が生えた程度の規模でしかなかった。そこから脱却できたのは山内氏のアイデアがあったからだった。
1950年代にプラスチックトランプが登場する。それまでの紙製のトランプは、使っているうちに角が擦り切れてしまっていたが、プラスチックにはそれがない。山内氏はこれをいち早く取り入れた。しかも、紙よりもはるかに発色性がいいことに目をつけ、ディズニーキャラクターを使った「ディズニートランプ」を1959年に発売、大ヒットを記録する。これにより1960年代、任天堂は業界トップに躍り出る。
しかしブームはいつか終わる。ディズニートランプの売り上げの陰りを見た山内氏は、「自分たちの商品は必需品ではない。そのうち市場があっという間になくなるかもしれない」という恐怖心を抱く。それを克服するには次から次へと事業を育てる必要がある。そう考えた山内氏は新規事業開拓に奔走する。そしてこれは、任天堂の迷走の始まりだった。