地震大国、日本を救う中小企業がある。

 ひとたび地震が起きると、山間部では地すべりや土砂崩れ、道路の寸断といった様々な被害が発生する。そうした被災地の復旧工事に用いられるのが、前田工繊(福井県坂井市)が製造する土木工事用資材だ。かつて日本が得意とした繊維産業。その技術を生かしたユニークな製品群である。

好況に沸く繊維業界から転身

前田征利社長は機屋の仕事から土木業界への転身を図り、前田工繊を設立した

 前田工繊は福井県で、伝統的な地場産業から他産業へいち早く転身を図り、成功した企業として知られている。1970年代初頭、当時の花形産業である繊維業界と決別し、未知の世界である土木業界への参入を果たした。 好況に沸く業界を飛び出して商売を鞍替えするのは、かなりの勇気を必要としたに違いない。しかし前田征利社長は「決断もなにもありません。単に賃加工の仕事が嫌だっただけなんです」とこともなげに言う。

 単に「嫌だから」と言って会社の事業を転換できるものではないだろう。それまで事業は好調だったし、なにしろその時点で前田氏は、まだ社長に就任していなかったのである。当時の社名は前田機業場。社長は父親が務めていた。大胆な事業転換を父親に進言して、衝突することはなかったのか。

 この疑問に対して前田社長はこう答える。「私は父親が40歳を過ぎてから生まれた子供なんですよ。親父が年を取っていたから、新しいことをやらせてもらえたんでしょう」。真面目な面持ちで、父親が高齢だったことが「ラッキーだった」と語る。

 父親が手放しで賛成してくれたとは思えない。実際は何度も議論を重ね、躊躇する父親を説き伏せたのだろう。他の社員の抵抗も、間違いなくあったはずだ。だが、それらは前田社長にとってささいな障害だったようだ。前田社長は頑ななまでの決意を持って、ある目標を追い求めていた。その目標に近づける喜びに比べれば、身近な人間の抵抗など、ものの数ではなかったということだ。前田社長が胸に抱き続けた思いとは何か。それは、「本当の商売をやりたい」という一念である。

「こんなのは本当の商売じゃない」

前田工繊
〒919-0422
福井県坂井市春江町沖布目38-3

 前田社長は1968年に前田機業場に入社した。前田機業場は織物業を営む会社だった。「機屋(はたや)」とも呼ばれ、衣料メーカーから糸を与えられ、指定された通りに織物を作り上げる仕事である。日本では1960年代からナイロンやテトロンといった合成繊維(合繊)で洋服が作られるようになった。福井県でも繊維企業がこぞって合繊の加工を手がけ、 活況を呈していた。前田機業場もその中の1社だった。前田社長は「機屋の仕事は儲かった。何しろ利益率がとても良かった」と述懐する。

 しかし心の中では、メーカーの言い値で言われた通りに加工する賃加工の仕事が「嫌で嫌で仕方がなかった」と言う。「最終製品がどこにいくらで売られているのかも分からない。だから加工していても全然面白くないんですよ」

 機屋ができるせめてもの営業活動は、「メーカーの担当者とマージャンをして、酒を飲んで、加工賃を上げてくださいとお願いすること」だった。前田社長は、「こんなのは本当の商売じゃない」と考えていた。「何か違ったことをできないだろうか」。新しい商売に思いをはせて悶々とする日々が続いた。そんな時、前田社長はある商材に出合う。