身長も決して高くなく、華奢で、プレースタイルも性格も地味でしたが、ジュニア選手の割には落ち着いていて、自分のプレーを淡々とこなせる大人な選手という印象でした。

 次の日の新聞には「15歳のジュニアが国際大会でプロに勝って初戦突破」という見出しが大きく掲載されており、初めて彼がスイスで期待されているジュニア選手だということを知りました。その時は、まさか将来の世界ナンバーワン選手になるとは夢にも思いませんでした。

 結果的に、私はその大会でATPポイント(世界ランキングの指標となるポイント)を1ポイントしか獲得できず、世界のレベルの高さを痛感し、プロの道を断念しました。大学卒業後は銀行に就職することを決め、フェデラーとは一生関わりのない生活を選んだのでした。

「私はこの5年間、何をやっていたのだろうか」

 銀行に就職してから4年目の2000年9月、シドニーオリンピックの3位決定戦でフェデラー対ディパスカル(フランス)の試合がNHKで放映されているのを目にしました。

 あの華奢な少年が、オリンピックで銅メダルを懸けてプレーしていることに驚きました。

 あれからの5年間、フェデラーはウインブルドンジュニア部門で優勝し、世界ジュニアナンバーワンにもなり、プロ転向後は2000年の全仏オープンではベスト16まで勝ち上がり、世界ランクを100位以内まで上げていました。

 一方で、その5年間、私は就職したことによってテニスという大きな軸を失い、目標の見つからない日々を送っていました。私はこの5年間、何をやっていたのだろうかと、愕然としました。

 2002年4月、私は会社員生活を捨ててプロテニス選手として世界ツアーを転戦することを決めました。プロテニス選手として世界ツアーに挑戦しなかったことをこれ以上後悔したくなかったからです。

 その決断をする際に、フェデラーの活躍が刺激になったのは間違いありません。

 プロ転向直後、新たな出会いがありました。フェデラーと共にジュニア時代を過ごしたという加藤純氏との出会いです。彼は日本で生まれましたが、父親の仕事の関係で幼少時からずっとスイスで育ちました。

フェデラー(中央)、加藤純氏(右)と。2006年撮影

 14歳以下のスイスジュニアチャンピオンとなった加藤氏は、ジュニア時代からライバル関係だったフェデラーと共にスイスナショナルテニスセンターに住み込んでトレーニングを積みました。

 片言の日本語を話しながらテニスの世界標準に身を置いている彼と私は、世界ツアーを転戦する中で本音をぶつけ合える同志となりました。

 彼は、「まさかフェデラーが世界ナンバーワンになるとは夢にも思わなかった」と言います。私も同意見です。15歳のフェデラーにはその面影は全く感じませんでした。いったい世界ナンバーワンになった理由は何だったのでしょうか?

精神力を鍛え上げた様々な経験

 大きな要因として挙げられるのが、類まれなる精神力の強さです。加藤氏によると、フェデラーは苦しい時期を何度も乗り越えたといいます。加藤氏はフェデラーの精神力を鍛え上げた3つの経験を教えてくれました。

 1つ目が親元を離れた時の経験といいます。フェデラーは14歳の誕生日を待たずに、故郷であるバーゼル郊外のミュンヘンシュタインを離れて、ローザンヌのエキュブランにあるスイスナショナルテニスセンターに住み込みました。当初、ドイツ語圏で育ったフェデラーはフランス語の習得に苦しみ、辛い日々が続いたそうです。