金は無味乾燥な経済論議の中にあって、いつも神秘的である。その怪しい輝きは人類が最も古くから崇めてきた価値の表象であり、幾多の悲劇と喜劇を織りなす糸として、連綿と続いてきた。

 ことに合理性が貫かれるはずの現代資本主義経済にあって、前史から持ち越された金という不思議な金属の持つ神秘性は、我々を幻惑させる。理路整然たる経済論議が、突如金が登場すると、途端に魔法にかけられたように、捻じ曲がってしまう。

 筆者は大学紛争騒然たる中で、1969年に横浜国立大学に入学したが、その年は、IMFがSDR(特別引き出し権)を創設した年であった。マルクス経済学の大家であった当時の学長、越村信三郎氏が新入生に対する経済講演の中で「いよいよ金の経済的役割が終わるときが来た。将来、金は便器の素材ぐらいとしてしか使い道がなくなるだろう」と語っていたことを思い出す。

 当時、世界の半分を支配していた共産圏の計画経済ははるか前から金との紐帯を断っていたが、いよいよ資本主義にもそのときが来た、という感慨を越村先生はお持ちだったのだろう。

 その年、ベトナム戦争で米国の敗色が濃厚となり、米国内では猛烈な反戦運動が盛り上がっていた。資本主義が全般的危機に陥っているとの観測が蔓延していた。そして2年後の71年、ニクソン・ショックでドルと金との交換が停止され、金はいよいよ廃貨された、と見えたのである。

効用が見えなくなった金

 経済舞台から退場したと思われた金が、その後2度の急騰を演じ、いまだに金融の「要(?)」の位置にいるとは、誰も予想できなかったのではないか。

 第1回目の急騰は80年で、ニクソン・ショック前の35ドル/オンスからピークには800ドル/オンスへと跳ね上がった。そして2000年代初頭の260ドルで底入れした後から再び騰勢を強め、今年は1500ドル/オンスと史上最高値を更新中である。

 ここまで上昇するのであるから、投資対象として誰もが無視できない存在なのであるが、困ったことに、根拠が誰にも不明なのである。

 あらゆる商品にはその効用(マルクス経済学で言えば使用価値)が備わっており、それが価値の源泉になっているはずなのに、金だけは効用(使用価値)が不明なのである。唯一金の効用としては、装飾品用、および工業用(半導体のボンディングワイヤーなど)があるが、その程度では著しく価格を高めた金の効用(使用価値)を説明することは困難である。