ほんの10年余り前、日産自動車が陥っていた苦境がどれほど深刻だったか。1998年には有利子負債が2兆円を超え、しかしそれをどう返済するか、さらに企業としていかに再生するかの道筋がまったく見えない迷走状態だった。

 もともと日産は、第2次大戦前に鮎川義介が興した財閥、日産(日本産業)コンツェルンに端を発し、戦後は堅実・堅牢なクルマを送り出して地歩を固めたものの、経営と組織に関しては少なからぬ問題を抱えたまま、迷走を繰り返してきた。プロダクツの内容を振り返ってみても、「技術の日産」のイメージを形作った時代が短く何度かあるものの、低迷に落ち込む時代が繰り返し現れ、波の大きなメーカーである。

 そうした企業が、日本経済のバブル崩壊後数年を経ずして経営危機に直面した。いつも書いていることだが、自動車産業は製品とその技術を生み出すのに数年かそれ以上を必要とするし、そうでなくてはならない(短期間で形だけ整えた商品は、その後十数年の消費と生活に対応できない)ため、ものづくりや経営の進路を誤った結果が「目に見える」ものになって現れるまでに時間がかかる。今、振り返れば、あの時の日産の苦境はさらに10年後にアメリカのビッグスリーが陥った最悪の状況、国の支援を受け、大手術を一気に進める以外に生き残ることはできないという危機ほどには悪化していなかったとも言えるのだが。

 結局、ルノーが資本を注入して、日産は事実上「外資系企業」となる道を選ばざるを得なかった。そしてカルロス・ゴーン氏が経営再建のために送り込まれ、巨額の債務を一気に減らすための「荒療治」を施したことは、読者の皆さんの記憶にも残っているはずだ。ゴーン氏の日産COO(最高執行責任者)着任は1999年6月、有利子負債を完済したのが2003年だった。

ものづくりの内容が置き去りにされた「コミットメント」

 前から何度か書いているように、ゴーン氏は「病状が悪化した企業の『外科手術』」には長けている。しかしその「外科手術」の方法論、ある意味では「経済的緊急事態への対処法」を、荒療治の時期だけでなく回復期も、さらに体力を取り戻した(ように見える)ところから新しい体質を作ってゆくべき時期にまで処方したままにしていることが、むしろ日産のものづくりの退化を招いている。

 その一例が「コミットメント」である。元々の意味は「公約」であって、何か計画を立案し行動する時に、その達成目標を明確に描いて、そこに向かって進む、ということを示しているはずだ。しかし「ゴーン流」においては「ある製品(商品)を企画し、開発する人間が、その商業的成功を確約する」ことを求められるのだと聞く。製品開発以外の分野でも、何らかの資金を投じた行動に対しては、明らかに形に見える成果を「達成」することを求められる。