連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

レズビアンだったと見られている紫式部、その理由は何だったのか

 レズビアンの最も古い記録は、紀元前6世紀頃、ギリシアのレスボス島に住んでいた詩人サッポーが女性たちへの愛を綴ったものといわれている。

 古代ギリシア世界の古代スパルタ人の間においても、女性の同性愛は一般的なものだった。

 帝政ローマの著述家プルタルコスは、「淑女を性の対象とする女性の同性愛者の間においても、その愛は尊ばれた」と記している。

 日本文化について研究している米国の人類学者で小説家ライザ・ダルビーの研究によれば、平安時代、日本でもレズビアンが社会的に受け入れられていたという。

 バイセクシュアリティとは、同性や異性を問わず、美しい存在に対する憧れ、あるいは性的な欲望を抱きうる性的指向、恋愛的指向を意味する。

 それは歴史上における人間社会だけでなく、ボノボ、シャチ、バンドウイルカといったほ乳類のみならず、魚類、甲殻類、扁形動物においても様々な形態で観察されている。

紫式部に求婚する父親ほどの年齢差がある男

「百人一首」や「女房三十六歌仙」の歌人としていまも親しまれている紫式部。

 天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、少なくとも寛仁3年(1019年)までは存命したとされる。

 式部の父・藤原為時は花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人である。

 為時は一条朝に入ると、内外の官司に執掌を持たない位階となるが、藤原道長が執政になると従五位下・越前守に叙任されて越前国へ下向。この際に娘・紫式部、息子・惟規も同行する。

 当時、越前武生には北宋の商人・朱仁聡が、林庭幹・羌世昌(周世昌)らとともに滞在していた。為時は、その交渉相手として越前守に任じられたとされる。

 だが、一条天皇が学識の高い彼に唐人と詩を作りながら交わらせてみたかったため越前に任じられたともいわれている。

 越前の地では紫式部の人生を大きく変える出来事が起きることになる。

 式部が父とともに越前下向に同行した理由の一つには、将来、夫となる男・藤原宣孝からの求婚があったためだという。

 藤原宣孝は、式部とは父親ほどの年齢差があった。

 公家の男性が女性に求愛する際、相手の家の女房・乳母を通して、意中の女性に手紙や和歌を贈るのが一般的な作法だった。

  宣孝は式部の父・為時とも仲が良かったことで、この縁組は紫式部の父が積極的に進めたとされる。

 宣孝は幾度となく、「年が明けたら越前にいる唐人を見に行こう」という手紙とともに、彼女に求婚の歌を贈っている。

「春なれど 白嶺のみゆき いやつもり 解くべきほどの いつとなきかな」

(春には雪が解けるものです。あなたの心も、そろそろうちとける時にあるとよいのですが)

 公家の女性は、男性から初めて受け取った手紙には、たとえ相手の男性が気に入っていたとしても、取り急ぎ「断り」の返事を贈るのが慣例だった。紫式部の返歌は、

「春なれど 白嶺のみゆき いやつもり 解くべきほどの いつとなきかな」

(春になりましたが、白山の雪は積もりに積もって融けそうもありません。私の心があなたに打ち解けるのは、いつになることでしょうか)と「断り」を意味する歌を贈っている。

 清少納言の『枕草子』によれば宣孝は、派手好きの伊達男で、明るく、そして女性に優しい性格だったようだ。

 当時は一夫多妻制で、式部よりも20歳ほど年上だった宣孝には、既にほかに何人かの妻妾と同年代の息子もいた。