立教大学のスター選手だった杉浦忠と長嶋茂雄は、先輩の大沢昌芳の引きもあり、入団がほぼ確実と言われたが、長嶋はぎりぎりで巨人に奪われてしまう。

 鶴岡は同時に森下正夫(のち整鎮)、野村克也、広瀬淑功など高校上がりの選手も起用し、エリートとたたき上げの選手を競わせる中で、黄金時代を築いた。

 1959年には立教大から入団して2年目の杉浦忠が38勝4敗と空前の活躍、日本シリーズでも巨人を4勝0敗で下し、初の日本一に輝き、御堂筋をパレードした。

最多勝の監督、リーグ優勝の回数も1位タイ

 鶴岡は、データ野球の先駆者でもあった。毎日新聞でデータ関連の記事を書いていた尾張久次をスカウトし、チーム専属のスコアラーにする。「尾張メモ」と言われた緻密なデータで南海ホークスの躍進を支えた。

 現役時代の野村克也は、スコアラー室の尾張をたびたび訪れ「尾張メモ」を見て、データ野球の重要性を学んだ。尾張は、請われれば他球団のスコアラーにも「尾張メモ」のノウハウを惜しまず伝授した。鶴岡は「プロ野球全体のためなら」とこれを容認。巨人、大洋以外の球団のスコアラーが「尾張門下」だという。

鶴岡一人監督とペアを組み柔軟体操をする野村克也捕手=1962年2月、大阪球場(写真:共同通信社)

 1946年に監督に就任してから、1968年に退任するまで23年間、南海監督として積み上げた勝利は1773勝。これはNPB最多。

NPBの監督勝利数10傑

 鶴岡は最多勝だけでなく、リーグ優勝の回数も川上哲治(巨人、1066勝)と並び1位。また勝率.609は、100人ちょうどいる通算200勝以上の監督の中でも1位だ。

鶴岡監督1000勝達成の記念の盾(筆者撮影)

 1965年には野球殿堂入り。1968年、鶴岡は監督を辞して大阪毎日放送の解説者になったが、このときにこういう誓いを立てている。

「結果論は言わない」
「批評とは人を励ますことである」
「チームの財産である選手を傷つけない」