八百長に毅然とした態度

 1946年、30歳の山本一人は、プレイングマネージャーとしてグラウンドに戻って来た。この年、南海は「近畿グレートリング」を名乗る。

 冒頭述べたように、この頃までのプロ野球は、今でいう「反社」との交流が深かった。ベンチにも怪しげな人間が出入りしていた。

「東京六大学始まって以来の名三塁手」と言われた鶴岡だが、このシーズンだけは一塁を守り、投手や内野手におかしな動きがないか見張った。

 1988年に発刊された「南海ホークス50年史」には、山本監督が起用しなかった2人の選手の名前が記されている。

 実は、戦前から、八百長行為を働いている選手がいるのではないか、という噂が絶えなかった。この時期、そうした選手の復帰の話もあったが、山本はこの話を断っている。

 他チームの監督とも連携して、山本は「八百長」根絶につとめた。大学卒業時に「野球遊びに現を抜かすとは何事か」と言われただけに、プロ野球のステータスを高める必要性を痛感していたのだ。

 この年、近畿グレートリングは初優勝、山本は4番打者として打点王を獲得し、MVPに選ばれている。

 山本は、この時期から俊足好打の内野手を揃え、後には「100万ドルの内野陣」と呼ばれる守備陣を形成、チームを巨人と並ぶ強豪に育てた。

 36歳の1952年には現役を引退し、監督専任となる。この点、42歳の1958年まで現役にこだわった小学校からのライバル、藤村富美男とは対照的だ。1957年には最初の夫人を亡くし山本姓から鶴岡姓に戻っている。

1965年、南海ホークス監督時代の鶴岡一人(写真:共同通信社)

 1950年代後半から三原脩監督率いる西鉄ライオンズが台頭すると、鶴岡は各大学の長距離打者をスカウトする。専修大の杉山光平、立教大の大沢昌芳(大沢啓二=大沢親分)、中央大の穴吹義雄、法政大の長谷川繁雄。

 実質的なGMだった鶴岡は、試合が終わるとボストンバッグに札束を詰め込んで夜行列車に乗り込み、早朝に意中の選手の家を訪問することもあったという。