日本シリーズ史上初の4戦全勝で日本一となり、チャンピオンフラッグを手にスタンドのファンに応える鶴岡一人監督(右)。左は陰山和夫コーチ=1959年10月29日、後楽園(写真:共同通信社)
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 新年早々、昭和の偉大な野球人の残した言葉が話題を呼んだ。

 NHKの「伊集院光の百年ラヂオ【プロ野球復活の日・鶴岡一人】」という番組で、南海ホークスの大監督だった鶴岡一人(1916-2000)が1980年にNHKラジオで語った声が流れたが、鶴岡は、終戦直後のプロ野球の「八百長対策」について赤裸々に語ったのだ。

隣の小学校にいたライバル・藤村富美男

 鶴岡一人は、法政大学を出て1939年に南海軍に入団するも、1年で応召。46年にプロ野球に復帰するとともに選手兼任監督になった。

 当時は、プロ野球選手と博徒の交流が盛んで、八百長行為をもち掛けられることも多かった。

 そこで、鶴岡は本来三塁手だったのが一塁手になって、投手の動きを監視したという。また八百長させないために投手は継投策をつかっていたという。

 今から思えば衝撃的な話だが、そもそも鶴岡一人とはどんな野球人だったのだろうか? 筆者は8年前に、故郷の呉市や周防大島に赴き、鶴岡についていろいろ調べたので、それも交えて紹介したい。

 鶴岡は、広島県呉市の生まれだが、出身は、山口県の周防大島。

 この瀬戸内海に浮かぶ島からは、民俗学者の宮本常一(1907-1981)や、歴史家の奈良本辰也(1913-2001)などユニークな人物がでている。町内の図書館では、こうした人物とともに鶴岡も紹介されている。

本州側から見た周防大島町(筆者撮影)

 周防大島からは明治期に多くのハワイ移民が出ているが、この島の住人は若いうちに島外に出て、様々な経験をして帰って来るという習慣があった。視野が広く、洞察力のある人が多かったという。宮本常一は著書『忘れられた日本人』で、周防大島出のこれらの人々を「世間師(しょけんし)」という言葉で紹介しているが、鶴岡にも「世間師」的な一面があるのではないかと思う。

 鶴岡の父が呉工廠に勤務したため、鶴岡一人も呉で育った。呉市内の五番町小学校に通ったが、塀を隔てて二河小学校という別の小学校もあった。五番町小学校は、近隣の商家が金を出して作った学校、これに対して二河小学校は地元の工員や職人が設立した。二つの小学校に通う子供は、家庭環境が違っていた。

呉市の二河公園内にある呉市二河球場。副称は鶴岡一人記念球場である(筆者撮影)

 鶴岡は小学校時代に早くも野球で頭角を現したが、隣の二河小学校でも同学年に傑出した野球少年が現れた。のちの「ミスタータイガース」藤村富美男だ。