例えば、ジャーナリストという仕事においても「絶望と危機感」は根本に立つ。取材によって捉えた問題を社会に訴えようとするのも、このままでは人々が不幸になる、社会が崩壊する、あるいは秩序が保てないなどという「絶望と危機感」のはずだ。それが正義感に変わり、告発する原動力となる。
あるいは、政治においても同じだ。日本を変える使命に燃えるのも、現状に対する「絶望と危機感」のはずだ。ここ数年、私も政治の内側に立ち入ることが多くなったが、そこでも「絶望と危機感」を抱かざるを得ない(その政治の裏側もいずれ、どこかで告発することになるだろう)。
もっと言えば、SNS上での誹謗中傷につながる書き込みも、個人の正義感から発したものであったのなら、それは現状への不満や個人の常識というものに照らし合わせた「絶望と危機感」にある。
オウム事件のせいで統一教会から逸れた世間の目、その隙に拡大していった悲劇
旧統一教会による多額の献金や家庭崩壊が問題となったのは、この事件がきっかけではない。1980年代から90年代にかけて、統一教会の霊感商法やタレントが参加した合同結婚式が社会問題化した時期があった。
ところが、それにもましてオウム真理教が世間の耳目を集めるようになると、やがて地下鉄サリン事件を引き起こして、すっかり統一教会の姿をかき消してしまった。統一教会は生き残り、被害は拡大していった。その中に山上被告とその家族もあった。
そこへ元首相を暗殺するという事件で、日本は冷や水を浴びせられたように、忘れていた記憶を呼び覚まされた。「統一教会」と聞いて山上被告への同情が起こり、自民党と統一教会の関係が批難の嵐に曝された。自民党は統一教会との決別を余儀なくされ、さらには政権与党として教団の解散命令まで請求するに及んだ。明らかに自己批判へ追い込まれていく。
そうであるならば、検察だって及び腰になる。求刑が死刑でなかったのも、そのはずだ。検察は論告の中で「わが国の戦後史に前例を見ない、極めて重大な犯行。動機は短絡的かつ自己中心的で、酌量の余地はない」「不遇な生い立ちは、量刑の大枠を変えるものではない」と断言しながら無期懲役を求刑。2007年の長崎市長射殺事件を参考にしたとも報じられているが、求刑は死刑だったはずだ。一審では死刑判決が下り、控訴審で無期懲役となって、そのまま最高裁で確定している。