のぶも一時期、好き嫌いが分かれた。国家主義に染まった女子師範学校2年時の1937(昭12)年の第29回から、愛国教師を経て、戦争が終わる第60回(昭20)まで、「のぶは嫌い」「苦手」という意見が渦巻いた。

 のぶへの悪感情を瞬く間に消したのも中園氏によるセリフである。嵩に対して口にした懺悔の言葉だった。1946(昭21)年の第63回である。

「うち、教師辞めたが。子供らにもう、向き合えんようになってしもうた。うちは子供らに取り返しのつかんことをしてもうたがや。あの子ら戦争に仕向けてしもうたがはうちや。うちは立ち止まらんかった。立ち止まって考えるのが怖かったがよ。あの子らの自由な心を塗りつぶして、あの子らの大切な家族を死なせて」

 のぶはこうも言った。

「うち、生きちょってええがやろうか。うちは生きちょってええがやろうか」

 2度繰り返した。死まで口にしながら反省する朝ドラのヒロインはいなかったはずだ。これにも観る側は心を動かされたに違いない。

戦後のシーン、どころどころに若干の違和感

 ただし、ここからは引っかかりを感じた。のぶの高知新報への入社である。同じ1946年、第66回のことだ。

 のぶのモデルである暢さんに教師歴がないのは知られているとおり。一方で暢さんには高知新聞社での1年足らずの新聞記者歴がある。愛国教師ののぶというフィクションと新聞記者の暢さんというノンフィクションが接ぎ木された。

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は1945年10月から国家主義的な教師をパージした。政治家、官僚、新聞人、教育者らに対する公職追放の一環である。パージされた教師者の数は最終的には約7000人に達した。パージされる前に自分から辞めた教師も数多くいた。

 のぶはパージされる前に辞職したが、高知新報も新聞界なので、公職追放の対象だった。同社のモデルである高知新聞は戦時下報道の責任を取る形で、社長ら経営陣が退陣している。新聞界は元国家主義者に神経質にならざるを得なかった。