片倉城 撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は新たなシリーズとして、首都圏にある穴場な名城を紹介します。
なかなかよくできた城
南関東は戦国の土の城の宝庫だが、その中からちょっと穴場的な城を紹介してみよう。まずは、八王子市の片倉城だ。
京王線の京王片倉駅を降りたら、すぐ前を通っている国道16号線を南に下る。北野街道と湯殿川を渡ったところが片倉城跡公園で、緑地の中に池やベンチがあり、近隣の人たちの憩いの場となっている。ここの池の裏手にある丘が片倉城。地形でいうと、西から伸びてきた小比企(こびき)丘陵の支脈の一つが、湯殿川と兵衛川の合流点に臨む先端部にあたっている。
京王片倉駅のホームから見た片倉城。駅から城まで徒歩7〜8分、JR横浜線の片倉駅からでも同じくらいの距離だ
園路を登ると住吉神社の社殿が建っていて、裏手が主郭と二ノ曲輪である。二つの曲輪の中は広々とした芝地でベンチや藤棚もあるから、お茶やお弁当をもって訪れるのもよさそうだ。
主郭も二ノ曲輪も、曲輪の西側には土塁がある。主郭土塁の北端は櫓台になっているのだが、だいぶ崩されてユルユルになっている。二つの曲輪を隔てる空堀も、埋められてかなり浅くなっている。土の城に慣れていない人だと、土塁・空堀といわれてもピンとこないかもしれない。
主郭の広場。画面奥に土塁が横たわっており、その向こうに空堀を隔てて二ノ曲輪がある
以前、東京都の事業で片倉城を調査したとき土地の古い人に聞いたのだが、戦前〜戦中にかけて村の青年団が食糧増産で畠を開いたり、陸軍防空部隊の照空灯が置かれたりして、土塁が崩されて堀も埋められたそうだ。
戦争末期ともなると、防空部隊も食糧事情がよくなかったようで、兵隊たちが城内でイモやカボチャを作っていたとか。二ノ曲輪の北に堀切を隔てて小さな出丸があるが、この堀切も防空壕を掘ったとのことで変形している。
二ノ曲輪の北には空堀を隔てて出丸(画面右手)があり、北方への見張り台となっている
それでも、二ノ曲輪の土塁に登れば、奥多摩の山並みをバックに空堀を見下ろすことができる。畠となって深さこそ減じているものの、かなり大きな空堀だ。二ノ曲輪の南側に開く虎口から土橋を渡ると帯曲輪に出るが、ここには両側から横矢が掛かるようになっている。
二ノ曲輪の土塁に上ると足元に巨大な空堀が口を開けている
といった具合に、片倉城はなかなかよくできた城なのだが、いつ誰が築いたのかは、なかなかよくわからない。江戸時代の地誌には、長井氏が室町時代に築いたという言い伝えが書いてあるけれど、長井氏にゆかりの寺などが周辺にあるところからの附会だろう。
では、いつ誰が築いたのか気になるが、実はそのヒントはこの記事の冒頭にちゃんと書いてある。現在の国道16号は、横浜−八王子−川越を結ぶ幹線道路として知られているが、片倉あたりのこの道は元はといえば鎌倉街道だ。つまり、多摩地方を南北に抜ける鎌倉街道と、東西に走る北野街道との交点を睨みつつ、二本の川の合流点に臨んで築かれているのが片倉城、というわけだ。
住吉神社が建っている場所は実は空堀跡。写真右手が二ノ曲輪だ
また、公園の中に池が点在しているということは、かつては蛇行する湯殿川が城の北麓を洗っていたわけである。だとしたら、南の方にいる勢力が、北方の敵を意識して戦略的に取り立てた城、という推理が成り立つ。片倉城は高度な戦略上の必要から築かれた城なのであって、地元の豪族が住んでいました、などというお花畑的な城ではないのだ。
公園内から城跡を見る。手前の池はかつて湯殿川が蛇行した跡だ
築城者の候補としては、小田原の北条氏が挙がりそうだが、そのもう一段階前、相模の扇谷上杉家と上野・武蔵の山内上杉家が争っていた戦国初期の築城(長享・永正年間)という線も捨てきれない。
まあ、このあたりは簡単に結論が出る話ではない…などと思いをめぐらせながら帰り道、カフェに寄っておいしいコーヒーをいただく。うん? おっさんの一人城歩きも、悪くないか。
城の近くにあるカフェで一息








