紛争の手前で踏みとどまれば儲けもの?
その後、ますます進歩的になる都市部と右翼思想が根強い中心部へと人口の「整理」が進んだこと――そして互いが相手の過激主義をあおり立てる流れ――は、国民国家にとって新しい試練だ。
これがもし国家財政が黒字だった時代に起きたとすれば、そうした資金を癒しの手段として各地に分配することもできたろう。
だが、今の財政の数字を見るといい。地理的な二極化と物質的な不足――。それが今、国家が耐えなければならないものだ。
カール・マルクスやフランシス・フクヤマをどれほど揶揄するとしても、保守派には保守派なりの目的論があり、そのなかでは大規模な人間組織において国民国家が究極的な権威だ。
なぜそうであるべきなのか。
複数の国をまたぐ帝国には、もっと由緒正しい歴史がある。都市国家もそうだ。最も大きな成功を収めた国の一部でさえ、内戦を通して自国を統一しなければならなかった。
誰も内戦などは予想していないが、それでもトレンドは不吉だ。
フランスの「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」は反メトロポリタン運動だった。米議会襲撃事件があった2021年1月6日には、これと似た精神がワシントンに広がっていた。地方の抗議運動が昨年、様々な国の首都を脅かした。
最善の結果になった場合、これら2つの世界は互いにとって、ただの他人になる。
もし保守派がしきるニューヨーク市が遠い過去に思えるとしたら、英保守党のジョン・メージャーが左派色の強いロンドン・ランベス区の区議会を経てダウニング街10番地に入ったことを思い出すといい。
今の英国の保守党政治家は、このルートを試そうと考えることさえするだろうか。
筆者が思うには、国民国家にとっての一つの希望は、都市と地方が紛争に至る手前で踏みとどまり、相互の無理解で手を打つことなのだろう。
(文中敬称略)