道中の「金八トンネル」の由来となった、鴻之舞の芸者

 特に印象深い展示品が、昭和の初め頃、丸瀬布(まるせっぷ)にいた金八という芸者の謂われと顔写真であった。

 鴻之舞鉱山の輸送は、はじめ沢の北側の紋別市街へ向かう名寄本線経由がメインルートであったのが、昭和になって新たに南の山を越えた先である丸瀬布側で石北本線の敷設が進んできたので新道路を開削する話が出た。

 そこで丸瀬布へ通すか、遠軽へ通すか両者間で誘致争いが生じ、北海道庁などから役人が現地に派遣されることになった。

 この時、道路ができれば街の将来的発展が見込めると丸瀬布では街を挙げた誘致運動が展開され、鉱山関係者の酒宴の席に呼ばれる芸者にも協力を呼び掛けた。その中でも料亭美濃家で働く金八という芸者が活躍し、役人を懇ろにもてなしたという。

 その後、昭和6年に道路は無事丸瀬布側へ通すことになり、新たにできた峠道の名をつけるにあたって誰ともなく金八の名が浮かび、そのまま「金八峠」と名付けられた。

 道路開削にあたって長い間力を尽くした金八の名と顔を忘れないため、また「金が開く」にも通じることから縁起がよいと、皆納得の名であったという。

 ここへ来るのに通ったあの金八トンネルという不思議な響きにもそんなエピソードがあったのだった。