自民・維新の連携を「連立」と報じたことも無関係ではない
新聞報道の信頼性への疑問も無関係ではない。最近の政局報道を見ても、自民党と日本維新の会による「閣外協力」という合意について、多くの新聞が第一報の見出しに「連立政権」という言葉を掲げたことは、その典型例だ。
これは、政党や政治家の言い分を十分に吟味せず、そのまま垂れ流すという、近年のメディアの悪しき慣行を象徴している。 報道機関側は、「過去に同様の協力関係を『連立政権』と報じたことがある」と弁明するかもしれないが、それは本質的な理由にはならないはずだ。
確かに、自民党と維新の間で交わされた合意文書には「連立政権の樹立」という文言が明記されている。しかし、維新側は閣僚を一人も出さず、あくまで是々非々の立場を強調している。
このような協力形態は、内閣の一体性や閣内不一致の際の責任の所在が曖昧であり、一般に想起される連立政権とは明らかに性質が異なっている。政治学では、これは本来「連合政権」などと呼び、より緩やかな政策協力関係として区別されるべきものとみなされてきたことは明らかだ。
政治家や政党が、自らの立場を有利に見せるため、あるいは有権者の支持を得るために、様々な思惑からあえて「誤った」あるいは「誤解を招く」言葉や表現を戦略的に流布することは、政治の世界では日常的に見られる光景であり、それ自体が政治戦略として一概に否定されるべきものではないだろう。
だが、その言葉の裏にある意図を読み解き、事実関係を整理し、有権者に正確に伝えることこそが、ジャーナリズム、メディアが果たすべき本来の仕事のはずだ(筆者は「機能のジャーナリズム」と呼ぶ)。
ところが、今回の一件では、第一報の見出しに大きく「連立政権」と掲げた新聞が、後の解説紙面や詳細記事では「閣外協力」や「連合政権」といった言葉を説明し、平気で使っている例が多数見られた。これは無批判にもほどがあり、自らの報道や紙面全体に一貫性がないことを媒体自ら露呈している。
同じことは、安倍総理の国葬儀を巡る報道上の表現がことごとく「国葬」であったことからなんら反省していないように思われる。人口に膾炙(かいしゃ)しているからといって、それらを正すことなく、むしろ一緒になって不正確な表現を各社横並びで使い続けるのが、日本のマスコミ報道の「常識」になってしまっている。
だが、そのような混乱した紙面や報道に接した問題意識を持つ視聴者や読者が、そのメディアを信頼したいと思えるだろうか。
メディア各社が打ち出す信頼性向上のための様々な施策は、それが一般の視聴者や読者に明確に意識され、評価されない限り、一度低下してしまった信頼の回復に寄与することが困難であるという残酷な現実もある。
そもそも、情報が限られていた2010年代以前とは異なり、現代はテレビや新聞を含めたあらゆるメディアが、視聴者一人ひとりから「見る価値がある」という事前の判断を下されなければ、選択してもらえない時代に突入している。視聴者、読者中心のコンテンツ消費へと、構造的なシフトが完了した後なのだ。
このような環境下で、メディアの信頼可能性に関するメッセージは、よほど強力かつ明確な形で打ち出され、そして何よりも視聴者や読者自身がその変化を日々の報道の中で「実感」できない限りは、新たな顧客層や、すでに見限ってしまった「元」読者・視聴者層に届くことはないだろう。
これは、ネットメディアの世界ではごく当たり前の常識だが、かつてのマスメディアとしての成功体験と強い自意識を持つテレビと新聞の世界では、いまだにその現実が十分に受け止められていないように見える。そしてあまりに軽々しく「信頼」という言葉が使われている。