呉を滅ぼした西施の伝説

 古代史の女性の常として、西施についても同時代の一次史料は存在しない。彼女の実像は、後世にふくらまされた説話的な物語から想像するしかない。

 西施の本名は施夷光(しいこう)。衛の南子に対して「西子(せいし)」とも呼ばれる。生年は不明。越の国の諸曁(しょき、現在の浙江省紹興市の一部)の農村に生まれ、施の一族は農村の東と西に分かれて住んでいた。彼女は西のほうの家族だったので、後に西施と呼ばれるようになった。

 道家思想の古典『荘子』天運篇の「顰(ひそみ)にならう」の寓話は有名である。

 西施は胸をやみ、苦しそうに顔をしかめた。美しい顔は、ますます色っぽくなった。同じ村の不器量な女がそれを見て「美しいなあ」と思い、自分も顔をしかめて村を歩き回ったところ、その顔は不気味なものになってしまった。

 村の金持ちは固く門を閉ざして引きこもり、貧乏人は妻子を連れて逃げ出した。この故事をもとに、自分の能力や分もわきまえずに人のまねをして笑いものになることを「顰にならう」と言うようになる。

 西施は農村で薪を売っていた。通りかかった范蠡は、西施の美貌を見出し、彼女に諸芸を仕込んだうえ、呉王夫差の後宮に送り込んだ。

 果たして、呉王夫差は西施の色香に溺れて政務を怠り、臣下とのあいだに隙間風が生じるようになった。執念深く「会稽(かいけい)の恥」の雪辱の機会を狙っていた越王勾践と范蠡は、兵を興して呉を攻めた。そして紀元前473年、ついに呉を滅ぼす。

 その後の西施については、処刑説と逃亡説がある。

 呉の滅亡後、西施は越にとっても用済みになった。

 越王勾践の妻は、夫が西施に夢中になることを恐れた。呉の人々も、西施のせいで自分の国が滅んだと恨んでいた。西施は溺死刑に処せられる。生きたまま革袋につめられ、長江に投げこまれたのである。

 彼女の体は水中でバラバラになり、川や湖や海に散らばった。中華料理で、ハマグリやアリソガイを「西施の舌」、レンコンを「西施の臂」、フグを「西施の乳」と呼ぶのは、これに由来する。

 西施は死なず、范蠡とともに落ち延びて幸福な後半生を送った、という逃亡説もある。范蠡は、目標をなし遂げた越王勾践が、じきに功臣たちの粛清を始めるであろうことを正確に予測していた。

 范蠡は、西施を連れて外国に逃げ、名前を変えて商いを始め、莫大な富を築き、悠々自適の幸福な晩年を過ごした、とされる。