竹やりを手に集結したインドネシア独立派の若者たち=1945年(写真:Everett Collection/アフロ )
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 80年前の終戦の直後、気がつくといつの間にか脱走兵になっていた日本兵がいる。

 その話を本人から聞いたのは、今から20年前のことになる。当時はまだ、東南アジアに戦争が終わっても日本へ帰らず、そのまま現地に留まって暮らした残留日本兵がいた。戦後60年の夏、私は存命だった14人を訪ねた(詳細は拙著『帰還せず 残留日本兵六〇年目の証言』〈小学館文庫〉にある)。

 そのうちの一人、下岡善治に会ったのは、インドネシアの首都ジャカルタだった。待ち合わせの場所に、娘とその孫を連れてきていた。

 彼が脱走兵に、そして残留日本兵になった理由。その数奇な運命。

舞鶴の寒さに耐えられず南方行きを志願

 小学校を出て13歳で丹後のちりめん工場で働き始めた下岡は、17歳で徴用され舞鶴の軍港に送られた。燃料担当、重油の補給が主な任務だった。船艇が入ってくるとドラム缶を転がして、必要な場所まで運んだ。

 しかし、舞鶴の風は冷たかった。その寒さに耐えられなかった17歳の少年は、半年も経たずにもっと暖かい南方に行きたいと申し出た。

 その望みはすぐに叶った。呉に送られて3カ月を過ごしたのち、インドネシアのジャワ島東部のスラバヤに入った。そこでの仕事も舞鶴と同じ、ドラム缶を転がして燃料を補給することだった。

 現地で19歳になると、徴用が徴兵に変わり、軍属から兵隊へ現地入隊となった。二等兵だった。そこで3カ月間の訓練を受けて警備隊へまわされるはずだった。