箱館通宝(出所)日本銀行金融研究所貨幣博物館蔵
(安木 新一郎:函館大学教授)
江戸幕府の発行した「地域通貨」箱館通宝
箱館通宝は、江戸時代末期に箱館(函館)で鋳造された、蝦夷地のみで流通が認められた鉄銭である。幕末期、地方貨幣と呼ばれる各藩限定の貨幣が盛んに作られたが、幕府自ら鋳造するのは極めて異例である。
実は、8代将軍徳川吉宗(在職1716~1745)の頃から、幕府は一文銭を青銅ではなく鉄で作るようになった。1854年の開国直後から急激に貨幣需要が伸びていった箱館で鉄銭を作ったのも、内地と同じ貨幣制度を導入するためだった。
発行当初は喜ばれた鉄銭だったが、その後、内地から銅銭が大量に流入し、「良貨が悪貨を駆逐する」という逆グレシャムの法則が働いたこともあって、箱館通宝は急速に価値を失っていった。幕府は鉄銭の発行益(シニョレッジ)をもって蝦夷地開拓の資金にしようとしたが、失敗に終わったのである。
田沼意次をはじめ、幕府の中にも蝦夷地開発を志向する者は多数いたが、結果的に、開発の本格化は明治期を待たねばならなかった。
松前藩のアイヌ人政策としての物々交換
江戸時代の蝦夷地は松前藩領とされ、その後、幕府の直轄領になったり、松前藩に戻されたりを繰り返した。
松前藩の本拠地である渡島半島では金や銅銭が流通したが、アイヌ人との交易は物々交換だった。松前藩が自領と申告した蝦夷地、すなわち北海道、樺太、千島、勘察加(カムチャツカ)といった「アイヌモシリ(アイヌ人の地)」全体で、江戸幕府の発行した寛永通宝が見つかっている。しかしながら、アイヌ人は銅銭を飾りとして使っており、決済手段とは見なしていなかった。
松前藩は、アイヌ人が獲る毛皮やサケマスと交換に、これらより価値の低い量の米、酒、味噌、衣類、漆器、刀剣などを渡していたとされる。幕府は、松前藩が銭を使わないのは、こうした不正取引を覆い隠すためで、物々交換の強制のせいでアイヌ人が困窮していると考えた。また、幕府は、アイヌ人からも銭を使用したいとの要望があるとしていた。