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連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

勝山が考案した「勝山髷」は後に丸髷とも呼ばれ、約300年も既婚女性を代表する髪型として定着した(画像:歌川豊国 画 「江戸名所百人美女」)

 人々には「浴み」を好む習性がある。

 徳川家康が江戸に幕府を開くと、開墾の街に諸国からの移住者があふれ返った。

 その頃の江戸市中は開発の最中で、多くの人々にとって建設に伴う砂塵や労働の汗を清める必要があった。

 そんな中、人々の団欒と娯楽を兼ねた銭湯が登場。

 日本橋の西、銭瓶橋(現在の呉服橋付近)のたもとに家康入府の翌年の天正19(1591)年、伊勢国の与一が銭湯を開業する。

 それは上方の伝統を伝えた蒸風呂銭湯で、慶安から元禄の初め頃までは、銭湯では男女ともに褌(ふんどし)をして入浴していた。

 江戸の銭湯の数は、文化年間(1804~18)には600軒を数えた。

 江戸っ子の湯好き、朝湯の趣味や熱湯好きの風俗は、江戸の庶民生活を物語るもので、銭湯は江戸っ子にとってなくてはならない存在となった。

 西沢一鳳の江戸見聞録『皇都午睡(みやこの ひるね)』三編 中の巻・銭湯には、「二階にも其辺のよせとて噺講釈見世物の類の番付を張どこで斬った張つたの火事芝居の噂を聞ふなら銭湯に増事なし」とある。

 それは銭湯が、ただ身体を浄める場としてだけでなく、娯楽場、社交の場、また、世間の噂を知るといった、あたかも倶楽部の役割を果たしていたことを示している。

 江戸時代の銭湯は男女「入込湯」、「打ち込み湯」と呼ばれる混浴で、街の男たちや女房連中、鼓楼の女郎と若い衆、それらが銭湯の狭い浴槽お流し場に一緒に入っていた。

 素っ裸な男女の混雑の中では、風紀も何もあるはずもなく、その赤裸々な痛快さが江戸っ子の評判になり、銭湯は大繁盛した。

『皇都午睡』によれば「中は暗くて昼にても顔は見へぬくらひなり」と中が暗く、妖しげな気配が漂い、密かに刺激を求めて出かける者、風紀上好ましくない者が出入りし、問題が起こることもしばしばあったとある。

 松平定信が老中在任期間中に主導した幕政改革・「寛政の改革」の一環で混浴禁止の通達がなされ、男湯専業、女湯専業または入浴日を男女で分けた銭湯だけが営業を許可された。

 だが、そうした区別は銭湯の売り上げが半減するため、浴室や浴槽の中央に仕切りを立てることで、男女両方とも来られるようにする銭湯も出たのだが・・・。

 山田桂翁が大衆風俗を記した『宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)』によれば、「男女入込湯ゆえ、さてさて騒々しいこと」とあり、こうした規制は次第にうやむやになったようだ。