「戦争疲れ」の原因は地上戦
過去10~20年にかなり誇張されたテーマの一つに「戦争疲れ」があった。
はっきり言えば、イラクとアフガニスタンでの大失敗で有権者にそっぽを向かれた原因は、いつまで続くか分からず、米国人の生命も犠牲になる地上戦にあった。
それに比べれば、空爆に対する国民の態度は平静だ。バラク・オバマはリビアを爆撃し、狙いとは異なる結果を得たが、それでも再選された。
もし米国の地上部隊が本土から遠く離れた地に、例えば国家が崩壊したイランの安全を守るために派遣されて危険にさらされたりしたら、米国内での意見対立は現実のものになるだろう。
だが、米国はまだ世界を変えるに足る影響力を空から行使できるし、ウクライナが承知しているように援助によっても行使できる。
それに、もし大規模な地上部隊の派遣がレッドライン(越えてはいけない一線)であるのなら、米国政府がバルカン半島に深入りしようとしなかった1990年代と今とでは、何がどう違うのか。
あの当時、世界における米国の役目の終わりについて語る者などいなかった。
各地に足跡を残した習慣の根深さ
たとえホワイトハウスに正真正銘の孤立主義者がいたとしても、米国が世界の用心棒として剣を振り回すのをやめないと考える理由が一つある。それは「習慣」だ。
1776年に独立した米国がフィリピンを手に入れたのは1898年のことだったから、今では帝国である時代の方がそうでなかった時代よりも長くなっている。
(もっとも、「なぜそんなに後から計算するのか」とメキシコ人の読者は疑問に思うかもしれない)
身体が覚えたことはなかなか忘れないし、習慣を変えることでムダになる「埋没費用」もばかにならない。
東アジアや欧州、ペルシャ湾岸、ジブチなどの基地の閉鎖は、いや駐留させる人員の削減でさえ、不動産投資ポートフォリオの手じまいとはわけが違う。
兵站上の摩擦はもとより、国としての自尊心や戦略もからんでくる。
どこであろうと、米国が撤退して生じる空白には中国が引き寄せられることになる。