中動態とは何か?

──「能動態」でも「受動態」でもない「中動態」について説明されています。中動態とは何でしょうか?

國分:「中動態」というと、能動態と受動態の中間地帯のように思われがちですが、そういうことではありません。この本の最初の3章ぐらいを使って、そうではないということを私は説明しています。

出典:國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』から / ©アトリエプラン

 そもそも「能動」と「受動」という分け方が昔はありませんでした。インド・ヨーロッパ語という、英語、フランス語、ロシア語などの広い言語グループがあります。ヨーロッパ言語の祖先です。本の中では特に古代ギリシャ語を例に出して説明しました。

 かつては「能動態」と「受動態」ではなく、「能動態」と「中動態」の対立がありました。

 この時代は、行為の記述の仕方が、少なくとも動詞に関しては現代とは違っていました。実は世界中の言語を調べていくと、「能動」と「受動」で構成されていない言語はいくつも存在します。

 能動は自分の外側で行為や動作が終わる場合です。中動態は自分がその行為や動作の場所になる場合です。つまり「する」か「される」かではなく、「外側」か「内側」かという対立構造なのです。

──中動態を使った文章とは、たとえばどのようなものになるのでしょうか?

國分:分かりやすい中動態の例を出すと。この本の内容紹介にも記載した説明ですが、「人を好きになる」という例です。

 人を好きになったときのことを思い出してください。自分がその人のことを好きになるのだから能動に見えます。でも、あなたはその人のことを「好きになるぞ」と決めて好きになったのかといえばそうではありません。いつの間にかその人に惹かれている。

 もう「忘れたい」とか「逃れたい」とか思っても、それができない。つまり、引っぱられている。ですから「I love you」はほとんど受動的な能動なのです。私という主体を場所として、誰かに対する好意という感情が引き出されている。これが中動態です。

 同じように「尊敬する」という動詞も分かりやすい例です。

 誰かを尊敬しようと考えて尊敬するわけではありませんね。相手に対して感動したり憧れたりする気持ちが引き出された結果、尊敬している。しかし、尊敬しているのは私で、私という主語がなくなるわけではない。これもまさしく中動態ですね。