「叱れば変わる」という期待はどこから来るのか?

國分:さらにさかのぼって考えてみると、なぜ私の友人は不必要な夜更かしをしてしまうようなだらしない人間なのでしょうか。だらしない人間になろうと思って彼はだらしなくなったのでしょうか。

 もし意図してだらしない生活をする人間になることを選んだのでなければ、彼を叱責してもしょうがないし、叱責することはできないと思ったのです。

 人が誰かを叱責するときというのは、多くの場合、そこまで考えてはいません。「叱責すると変わるのではないか」という根拠のない漠然とした期待によって、叱っていることがほとんどです。

 時間を守れない。言われたことができない。忘れ物が多い。そういう傾向が強い人を大声で怒鳴りつけても、できるようになるわけがない。なんでそんな不思議なことを私たちはしているのか。「叱れば変わる」という期待はどこから来るのか。「責任って何なのか」とやはり疑問に思うのです。

 刑法に関わる犯罪行為でも、能動か受動かは問題になります。実際の裁判では、事件に至るまでの経緯が議論され、その犯罪行為に本人の意志があったのかどうかは決定的に重要な問題になります。

 しかし、意志とは何なのか。私たちは必ず何かの影響のもとに行動しています。自分が純粋な出発点となって、意志がむくむくと出てきて行為に及ぶということは完璧にフィクションです。

 自分のあらゆる体験に先行した意志が発生して行為に及ぶということはありません。にもかかわらず、こうしたフィクションを使わないと、世の中の司法やジャスティスは回りません。意志という概念を使っているし、使わないわけにはいかないのです。

 それを私は否定するつもりはありませんが、この論理がだんだん横暴になってきているという印象を持っています。

 背景事情も考慮しないで、何でもかんでも「それが君の意志で選択だろ」「だから責任をとれよ」という一方的な言い方になる。そんな社会風土への警鐘という面も、私がこの本を書いた1つの理由です。