12歳で藩主に
松前道廣は幼い頃より英明で、兵学、武術はもちろんのこと、書画や茶、音曲など諸芸に長けていた。
特に、馬術は「右に出る者なし」と称されるほどの名手だったという。
社交性が豊かで、生田斗真が演じる一橋治済から、伊達、島津などの有力な諸大名まで積極的に交際し、幅広い人脈を誇った。

一方で、両親を早くに失い、よき師にも恵まれなかったせいか、性格は放埒でプライドが高く、色を好み、浪費家であった。
参勤の際に吉原の女郎を落籍し、2回ほど松前に伴ったという。
12歳で藩主となった頃は家老が中心となって藩政を運営し、長じてからも、藩政は重臣に任せて、自由奔放な生活を送ったとされる(松前町史編集室編『松前町史 通説 第1巻下』)。
幕政は困窮し、朝廷と幕府間の紛争である「尊号一件」を仲立ちしようとしたらしいことも問題視され、幕府は病気を理由に、隠居願いを出させたという。
こうして、寛政4年(1792)、道廣は藩主の座を嫡子の松前章廣に譲り、隠居した。
だが、道廣は隠居後も実権を握り続け、勝手な振る舞いを続ける。
寛政8年(1796)8月、イギリスの探検船・プロヴィデンス号が来航した。
その知らせを受けると、「北門の守護神」を自任する道廣は、家臣たちが止めるのも聞かず、自ら甲冑を纏い、280人もの兵を率いて、松前から出陣する。
ところが、途中でイギリス船退去の報が舞込み、僅か数日で引き返すこととなった。
幕府から、ロシアと内通しているとの疑念もかけられ、同年、道廣は江戸藩邸詰を命じられる。
文化4年(1807)3月には重禁固となり、道廣は79歳で没するまで、土蔵で過ごしたという(松前町町史編集室『概説 松前の歴史』)。
ドラマの松前道廣は、これからどのように描かれるのだろうか。