少年事件の実名報道がなくなったのはなぜか?

川名:少年法が施行されたのは、1949年のことです。少年法第61条では、加害者の氏名や年齢、職業、住居、容貌など犯人が特定されるような報道(推知報道)を禁止しています。

 にもかかわらず、1960年代半ば頃までは、このルールをしっかりと守っている報道機関は多くはありませんでした。

 その典型例が、1960年に発生した浅沼稲次郎暗殺事件です。「犯人」は、当時17歳だった山口二矢(やまぐち・おとや)。実名はもちろん、さまざまな新聞やテレビで顔写真が晒されました。

 山口は右翼少年で、世間もマスコミも彼を「政治的に早熟な少年」と捉えました。そのため、加害者が大人である場合と同様の報道がなされました。

 ただ、当時、既に少年法が施行されていたのは先に述べた通りです。少年法が施行されていても、少年事件の加害者の実名顔写真を報道することに対して、報道機関も世間もそれほど抵抗がなかったのでしょう。

 潮目が変わったのが、1968年に発生した永山則夫による連続射殺事件です。

 犯行当時19歳だった永山もまた、逮捕時には実名や顔写真付きで報道されました。彼は少年審判から逆送されて刑事裁判で裁かれることになります。長い刑事裁判の中で、彼の貧しい生まれやネグレクト、物理的な虐待などの過酷な半生が明らかになっていき、社会の同情を誘いました。

 報道における少年事件の誕生は、私は永山則夫の事件だったと思います。少年事件の加害者とその生育環境が結び付けて考えられるようになり、加害者は「守られるべき者」であるという社会合意のようなものが形成されました。実際に、この事件を境に、少年事件の加害者の実名や顔写真の報道はほぼなくなりました。

──神戸連続児童殺傷事件の加害者である少年Aは精神鑑定を受けています。川名さんはこれを、かなり珍しいケースと書いていました。

川名:もちろん、少年Aよりも前に少年事件で精神鑑定を受けた加害者もいることにはいます。彼らと少年Aの決定的な違いは少年審判か刑事裁判かという点です。

 1997年当時の刑事法制では、刑事裁判の逆送の対象は16歳以上で、14歳の少年Aは刑罰の対象になることはありませんでした。少年審判で保護処分となることがほぼ確定していました。

 前出の永山則夫も精神鑑定を受けていますが、これは彼が起こした事件が刑事裁判で取り扱われたためです。精神鑑定の結果により、量刑が変わる可能性がありました。

 しかし、少年審判はそもそも刑罰を下すことを目的にしたものではありません。少年Aは最初から保護されることが決まっていたにもかかわらず、わざわざ鑑定を実施した。1997年当時、本当に異例中の異例でした。