辞書を開いて雅号を決めた尾上柴舟

 現在、生成AIと呼ばれている大規模言語モデルの機械学習システム、例えばチャットGPTのGPTは、「Generative(生成的な) Pretrained(事前学習された) Transformer(トランスフォーマー)」の略です。

 最後の「トランスフォーマー」が「トランスレーター」つまり翻訳機、自動翻訳システムを電子辞書と組み合わせて高度化したような、記号置換システムであることは、本連載で繰り返し説明してきました。

 兜太さんの例で、「なるほど俳人が辞書を引くのは分かった。でも生成AIに俳句を詠ませるのと辞書を引くのとは違う」とおっしゃる方がありそうです。

 しかし、辞書は単に調べるだけでなく、作家に新たな発想の転換、飛躍を与える装置でもあるのです。実例を引きましょう。

 すでに本連載でも触れた尾上柴舟(1876-1957)は、歌人としては古今伝授の担い手で1949~57年までは正月に皇居で開かれる「歌会始」の撰者を務め、国文学者としては学士院会員、書家として芸術院会員と20世紀前半に「詩画書」三位一体をそれなりに極めた人物です。

 しかし彼の処女作は「ハイネノ詩」の翻訳、早稲田大学高等師範部教授時代は、英文科学生だった若山繁、北原隆吉など有望な学生たちに、万葉古今などの古典に縛られすぎず、今日の詩情を今日の表現で歌うことを勧め、彼らが

草わかば色鉛筆の赤き粉の散るがいとしく寝て削るなり(北原白秋)

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)

 などと詠むのを後押ししたことにはすでに触れました。

 ここで、当然と言えば当然ですが、彼ら「英文科」の学生は、あらゆる思索の友として各種の辞書と首っ引きになります。

 そもそも英文の原義、意味を取るところから勝負は始まっており悪戦苦闘が続きます。

 そこで引かれる「英和辞書」ですが、実はそんな便利なものは江戸時代末まで日本には存在しなかったんですね。

 維新期に幕府の阿蘭陀通詞だった堀達之助(1823-94)らが苦心して編纂した「英和対訳袖珍辞書」(1862)、薩摩藩士高橋新吉(1843-1918)らがオランダ人宣教師グイド・フルベッキ(1830-98)の協力を受けて編纂した「和訳英辞書」(通称「薩摩辞書」)(1865)、米国の宣教師ジェームズ・カーティス・ヘボン(ヘップバーン)(1815-1911)の「和英語林集成」(通称「ヘボン辞書」)などがいまだ現役だった。

 近代洋学草創期、「辞書」は文明開化の明治人にとって「最新のアイテム」だったわけです。

 さらに尾上が「ハイネノ詩」を訳すのに活用した独話辞書はもっと遅くて、最初に出た「孛和袖珍字書(ふわしゅうちんじしょ)」小田篠次郎 藤井三郎 櫻井勇作編 東京學半社1872・・・孛和=「ふわ」はプロイセンと日本を意味する)、次いでルドルフ・レーマン校訂、勝海舟による跋文の付された「和獨對訳字林」(齊田訥於、那波大吉、國司平六編)は「ヘボン辞書」の忠実な独訳でした。

 外国語によって外国語を学ぶ草創期先人の苦労が偲ばれます。

 岡山、兵庫から東京に出て来た尾上八郎君、東京府尋常中学在学中に、宮内省御歌所の召人であった歌人、書家の大口鯛二(周魚、1864-1920)に師事したことが、彼の人生を決定づけました。

 パリ万博でエッフェル塔が建設された1889年、周魚25歳、尾上は満13歳、彼はこの縁で1900年、満24歳で明治天皇の歌会始に列したのを皮切りに、終生、古典との縁が切れませんでした。

 さらに1892年、旧制第一高等学校に進むと、国文の教官だった落合直文に師事して和歌を始めるのですが・・・。

 この落合直文か、大口周魚か、どちらか分からないのですが、いたいけもない尾上八郎少年に「自分の雅号をつけよ」と求めます。

 13、14歳か、せいぜい16歳、中学高校生の男子にいきなり自分の雅号を決めよと言われても、そんな事態になるとは想像もしていません。

 八郎君がハタと困ってしまったのは、21世紀の中学高校生に「ハイクを詠め」「ワカを詠め」「雅号を決めろ」と言われたのと大差ない、キツネにつままれたようなものだったのでしょう。

 さてしかし、いろいろ考えた中二病の八郎君、机の上にあった辞書を広げ、パラパラと無造作にぺージを繰って任意の一文字を指さしたところ・・・「柴」の字が指さされていた。

 次いで、またパラパラ・・・といくつかの漢字を選び出した中に「舟」もあった。

 これ、実は変ですよね。「柴」は囲炉裏などにくべる焚き木で、そんなものを材木にして舟を作ってもすぐ沈んでしまうでしょう。

 これは面白いや、と偶然性から生まれた言葉の遊びで「柴舟」なる号を「生成」したわけです、いいかげんに繰った辞書のページから。

 その後の全生涯にわたって名乗り続けたのは、このナンセンスこそが「風雅」だからです。

 夏目金之助が「漱石」(石で口を濯ぐ:本当は「漱流枕石 ながれに口をすすぎ石に枕す」と言うべきところを「漱石枕流 石にくちすすぎ 流れに枕す」と言い間違えても屁理屈をこねて「歯を磨いているのだ」と曲げなかった故事からの「へんくつ」ですね)と同様、ミスや偶然から生じた「面白味」を雅号に取ったもの、ギャグで明治大正昭和、3代の天皇の歌会に列し続けたわけです。

 この話は一族の間では有名で、実は尾上八郎は私の母の大叔父にあたります。

 世の中に広く知られてはいないかもしれませんが、私は母から聞きました。母は尾上の大叔父に手をとって書の指南を受けた人で、「家の子」としてこうしたことに通じていました。

 ここで考えてみたいのです。尾上八郎君が机の上にあった「辞書」をパラパラ遊んだのは1889~92年頃と思われますが、その「辞書」とはどんなものだったのでしょう?