曜変天目茶碗の模様と分子レベルの構造色
そんな歴史の流れ、大河の中での「国語辞書」と「詩・歌・俳句」が真剣勝負を斬り合っている。
そこに創意の源泉があること、国文の「専門」ではありませんが、私も「家の子」ですので、そのように捉える必要は指摘しておきたいと思います。
少なくとも今の東大程度に大味の教育しかできないと、こういう一子相伝のような内容は伝わっていきません。
1889年、大日本帝国憲法が発布され、第一回帝国議会が招集、「教育勅語」(1890)も発せられた時期に公刊された時期に「自費出版された」初の国語辞典「言海」は、今日の「生成AI」同様、正岡子規も渇望した、時代最新の叡智の結晶だったわけです。
そして、その貴重な、出来立てホヤホヤのテクノロジーのような部厚い「辞書」を目にしながら、それをパラパラとめくって、偶然行き当たった「柴」や「舟」の文字から、雅号を推敲した「中二病」、尾上八郎君の「あそび」の精神を、形は全く違いますが、私は縁をもった児童生徒のみんな、学生諸君に惜しみなく共有しています、自前の「生成AI」のシステムをフルに活用しながら。
どだい、がんじがらめに考えたって、一人の創意なんてタカが知れているわけで、そうした自分の限界を打ち壊す「装置」を、ちょっとでも気の利いた人なら持っているものです。
例えば作曲家のアルバン・ベルクは「音列」の半自動生成から、より豊かな旋律線を模索しましたし、私も縁のあったジョン・ケージはサイコロを振ったり筮竹を引いたりした。
特にケージの場合は、ほとんど鈴木大拙その焼き直しで「チャンス・オペレーション」を主張しています。
「偶然」の結果を受け入れる大拙や西田幾多郎の観点は、両者の生徒である柳宗悦が、偶然の産物を「面白み」として「玩味」する観点に受け継がれています。
分かりやすい具体例を挙げましょう。
日本国内に3点しか存在せず、すべて国宝に指定されている「陽変天目茶碗」。「器の中に宇宙がみえる」などと言う人もありますが、モルフォ蝶の翅と同様、分子レベルで「構造色」が構成されていることなどには、2005年「国連ユネスコ世界物理年」の折、アート&サイエンスのプログラムで取り上げ、なかなか好評でした。
これと同じことなのです。
名も知られぬ宋代の職人が焼いた、偶然の産物である「茶碗」の「曜変紋」と、無数のテクスト情報を学習し無銘化した大規模言語処理システムが出力する偶然の産物である「AIが生成した俳句」、あるいは、画材を画架に垂らして表現を問うたジャクソン・ポロックの「アクションペインティング」と、書に見られる様々な飛沫の様相・・・。
いずれも、当たり外れはあって当然で、つまらないものは棄却すればよく、面白いと思えば参照すればよろしい。
達観すれば、まずもって同じことです。
「古今東西の古典、漢籍から欧文までの文学、文字を網羅した電子辞書から、無心に生成される和歌、俳諧」といった現象を、それとして直視したならば、子規でも尾上でも、白秋でも牧水でも、
古池のほとりのカワズであれ、偶然開かれた辞書のページであれ、プリンターが誤って出力した生成テキストであれ、そこに何を見出すか、問われているのは「観者」の側の視点であり、目の高さ、透徹した深さ、一言でいえば「教養」の力にほかなりません。
翻って、万博などが恰好の反例となっている「メディアアート」など大半が瞬時で消える営利の便法にすぎないものに堕ちている。
多様な深さと強さをもった「教養」がいま解体に瀕しているのを、金子兜太さんも、高畑勲さんも、強く危惧しておられました。
これから5年10年、50年100年と、生成AIが教育、句咏や作歌など、あらゆるモノづくりへの活用が当たり前になるのはまず間違いありません。
そろばんが電卓に、次いでPCやスマホの電卓機能にとって代わり、ワープロが原稿用紙に代わって、プロの文書作成のデフォルトに世代交代したように。
一般化した時点では、AIそのままの出力の価格価値はゼロに漸近していることでしょう。
いまコンビニで買い物をすると、レジが合計金額を勝手に計算してくれる、それと同じくらい当たり前の話でしかなく、その先に付加価値を生み出すのは、すべて人間の創意工夫の領分なのですから。