初の国語辞典「言海」と正岡子規の切望

 実は、この答えは(母からは聞いていませんが)ほとんど一意に定まってしまうのです。

 まず間違いなく、大槻文彦編の「言海」(1889-91)一択。というのも、その時期、「言海」以外に近代的な国語「辞書」は、存在していなかったからです。

 読者は英和辞書(1860年代)や独話辞書(1870年代)と比べて、日本語の「辞書」の成立年代が遅いことにお気づきになるでしょう。

 実際、大槻文彦が「国語辞書」の編纂を文部省報告課長だった明六社メンバー西村茂樹から命じられるのは1875年とのことですが、それから苦節11年、86年になってようやく稿がまとまった。

 ところが「文明開化」に熱心な政府は「国語の辞書は自費出版なら公刊を認める」と、およそ協力的ではなかったんですね。

 なぜなら、この時期の日本は洋学一辺倒、「富国強兵」「殖産興業」西欧の文物輸入に御執心。

 むしろ国学や漢学は古来の陋習扱いで、羽振りは良くなかったわけです。実際、尾上の叔父も「ハイネ」からスタートしている。

 ここで何かと神格化されやすい、でもその実はかなりネジの緩んだ青年像も伝えられる正岡升(子規)(1867-1902)の言葉を引いておきましょう。

 正岡子規は、すでに寝たきりとなっていた晩年の連載「墨汁一滴」(1900)2月7日の項で

「我国語の字書は『言海』の著述以後やうやうに進みつつ、あれどもなほ完全ならざるはいふに及ばず」

 と「完全な辞書」の出現を切望しています。

 正岡子規もまた、漢籍から宣長から、様々な古典を濫読しつつ、それを取りまとめたハンドブックの必要を切実に感じる近代文学者でありました。

 上の「墨汁一滴」の稿は、そのあと「・・・いふに及ばず。我友竹村黄塔(鍛)は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき・・・ついで九月始めて肺患に罹かかり後赤十字社病院に入り療養を尽つくしし効もなく今年二月一日に亡き人の数には入りたりとぞ」と続けています。

 1900年時点、外来語や専門語を網羅する「一大字書」の編纂は、将来有為の青年が大志をもって取り組むべき一大事業で、およそそんなものは成立していなかった。

 ちなみに上記の竹村黄塔は旧名河東鍛、彼の末の弟、秉五郎は正岡升に兄事して俳人となり、破格の新たな世界を切り開いた俳句の革命家、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)(1873-1937)その人にほかなりません。

 碧梧桐の兄は、生涯を「完全な国語辞典」編纂に捧げた。しかし志半ばでこの世を去った、それを正岡子規は嘆いているのです。

 そんな子規の理想に近い次代を画する国語辞典「辞苑」が世に出たのは1935年、編者の新村出(1896-1967)が東大言語学科教授を定年退官する1年前のことでした。

 この新村と尾上柴舟は1876年生まれの同い年で、共に多感な時期に「言海」の出現に立ち会ったはずです。

 そして両人が還暦を迎えるタイミングでようやくネクストスタンダードの国語辞書「辞苑」に世代交代。

 さらにこれが20年後、版元を岩波に移して「広」の一字をタイトルに補い、現在も改訂が続く「広辞苑」(1955-)が誕生します。

 それから60余年、2018年の「広辞苑第七版」から電子版が登場し、現在は紙の辞書を超え、様々な検索が自在にできるようになっている。