勝利を逃したホンダの初鈴鹿GP、そのとき本田宗一郎氏が言ったこと

 1987年から2シーズン、ホンダF1チームの広報担当を務めていた小倉さんだが、モータースポーツジャーナリストとして活動されるようになってからは、国内外、あらゆる自動車メーカーやチームの取材を精力的にされていた。

 日本ではトヨタとホンダをライバル視するファンも多いが、「もとをたどると本田宗一郎さんも豊田喜一郎さんも“遠州人”ですよ」と、にこやかに話していたことも印象に残っている。遠州の気質といえば「やらまいか(とにかくやってみよう)」精神だろう。

 本田宗一郎氏のエピソードとしては、小倉さんがかつてモータースポーツ情報サイトに語った、鈴鹿サーキットで日本GPが初めて開催されたときの逸話に胸を打たれる。記念すべき初開催となった鈴鹿GPは1987年。往復はがきで観戦チケットを申し込みする時代に、小倉さんはホンダの広報の一員として奮闘していた。

「鈴鹿は“時代”が変わる場所……元ホンダF1広報が語る想い出の日本GP」(Sportsnavi/2019年10月10日)

 母国グランプリを必勝体制で臨んだホンダだったが、勝ったのはフェラーリだった。レース後、スタッフを全員集合させた本田宗一郎氏(当時顧問)。負けてピリピリしている現場で放った言葉は「勝負は時の運だ!」。感動したと小倉さんは振り返っている。

 歴史を大切にする小倉さんであるから、今年がホンダのF1初優勝から記念すべき60年の年であることを感慨深そうに語ってもいた。

 ホンダは1964年に初めてF1に参戦したが、最初は右も左もわからない状態で、1年目の車は大失敗だったのだという。2年目は夏休み返上で大改造し、その年の最終戦(1965年10月のメキシコGP)で初優勝、というドラマチックなストーリーを、当時の開発担当者との対談経験を踏まえて聞かせてくれた。

ホンダが初優勝した1965年のメキシコGPでリッチー・ギンサー(米国)が搭乗したF1車の複製(写真:共同通信社)

 モータースポーツという競争の激しい舞台では、失敗を恐れずにチャレンジし続けることがいかに大切か。小倉さんはいつも、具体的なエピソードを交えて教えてくれた。車や技術だけでなく、普遍的な人間や人生というものを語っていた。だから小倉さんの言葉は、聞くものの心に届いたのだと思う。

 小倉さんに教えていただいたことは、これからもF1を見るときの指針になるとともに、私の人生を後押ししてくれるだろう。ありがとうございました。

【小倉茂徳(おぐら・しげのり)】
鈴鹿サーキットと同じ1962年生まれ。1987-88年ホンダのF1チームの広報スタッフとしてF1を転戦。以後、モータースポーツジャーナリスト・解説者に。子供向けにレーシングカーの仕組みと面白さを伝えながらSTEM教育への入り口となるレクチャーも行った。2016年からは、スポーツのネット配信DAZNのF1解説も担当していた。享年62。