私たちが「幸せではない」と感じてしまう原因

小林:隣の芝生が青く見えるように、ヒトは常に自分より上の存在を意識するようにできています。これもまた、ヒトの進化の過程で培われてきた性質です。

 ヒトは長らく、小さな共同体の中で暮らしてきました。そこでは「仲間はずれにならないこと」が生き残るための重要な条件でした。だからこそ、集団の中で「貢献しているように見られたい」「他の人よりも評価されたい」という欲求が、私たちの遺伝子に刻み込まれてきたのです。

 自分の働きが集団の中で評価されていないと感じたとき、ヒトは「自分は他の人の足を引っ張っているのではないか」「集団から排除されるかもしれない」という不安に苛まれます。

 だからこそ、ヒトは本能的に他者と自分を比べながら、少しでもよい評価を得ようと努力するようになりました。これも、私たちの遺伝子に深く刻み込まれた性質で、ヒトの本能に根ざしていると言えるでしょう。

 しかし現代では、私たちは数十人単位の集団ではなく、お互いの顔が見えにくい自治体、国家といった巨大な社会の中で生きています。そのために、いくら努力しても「上には上がいる」という現実に直面してしまいます。常に「自分はまだ足りない」と感じ続けてしまうのです。

 ヒトはかつてのように努力をしても「あなたはよくやっている」「集団に貢献している」と仲間に認められる機会に恵まれなくなりました。常に他者と自分を比較して、落ち込み、自信を失ってしまう。これが、現代の私たちが幸せになりにくくなっている理由の1つだと思います。

──今回の書籍では、特に「農耕の始まり」がヒトの幸せに大きな影響を与えたことに焦点を当てています。

小林:農耕の始まりは、格差社会の原点とも言えるでしょう。

 およそ1万6000年前に始まり、3000年前に終わるまでの縄文時代の期間、日本列島では小さな集落(ムラ)を単位として生活が営まれており、暮らしは比較的穏やかだったと言われています。

 縄文時代でも農耕をしていた形跡は見つかっていますが、主たる生活手段は狩猟採集でした。人々は皆で力を合わせて狩りや採集を行い、得られたものを分かち合って生活していたと考えられます。そうした共同体は、助け合いを基盤とする健全な集団でした。

 ところが、弥生時代に入ると、農耕が生活の中心になります。人々は定住し、物理的にも精神的にも「家」という単位が強くなり、そこに人々は収穫物を貯め込むことを覚えました。蓄えの量には、自然に個人差が現れます。これが、格差社会の始まりです。

 それまでの共同体では、得たものを皆で分け合うのが当たり前でした。集団への貢献に応じて分配が行われ、そこに不公平が生まれることはごく稀でした。しかし所有と格差が生まれると、人は自分の財を隠すようになり、社会の中に「不透明さ」と「不正義感」が広がっていきました。

 長きにわたり、平等な社会で暮らしてきたヒトには、不正義や不平等に強い嫌悪感を覚えます。これもまた、ヒトの遺伝子に深く刻まれた性質です。だからこそ、格差社会において、ヒトは強いストレスや不満を感じてしまうのです。