間崎哲馬・平井收二郞らの「密策」

 攘夷別勅使の京都への出発の直前、山内容堂は間崎哲馬・弘瀬健太に帰国命令を発した。理由は、土佐の人心を奮い起こすこと、また、その途中で中川宮らに江戸の政情を伝えるためとされた。間崎らは12月7日に江戸を発ち、13日には着京した。

 直ちに平井収二郎と会談し、中川宮に謁見して「密策」を言上した。間崎らは中川宮に令旨を懇請したが、その内容は「時勢逼迫、能く余之意を以て景翁(元藩主山内豊資)を諭す、容堂をして又後を顧みるの憂い無くすべし」(「隈山春秋」)というもので、山内豊資をして容堂を鼓舞し、即時攘夷路線での藩政改革を促すものであった。

 12月17日、間崎・弘瀬は令旨を持参して出京し、帰藩後、容堂の活動および令旨の内容を要路に伝達した。その結果、豊資から令旨を尊重する訓示が出されたのだ。この段階では、平井らの思惑通りの展開となった。

 12月23日、平井の「當時殿下(関白近衛忠煕)辞職、此機不可失、請任其望而闕其職、可以置太政官也」 との発言に対し、中川宮は「汝暫勿言、今言之、則必破事矣、疇昔(ちゅうせき)島津三郎亦言削藤氏之権、而余既已治之心矣、俟三郎與汝之容堂、而後可謀之也、汝必秘而勿言之」と回答した。

 宮は島津久光からも「削藤氏之権」 、つまり摂関制廃止を持ちかけられ、既にその決心であり、久光と容堂が上京後、それを謀ると発言した。平井の「太政官」の主意は、摂関制を廃した天皇親政にあったが、宮は自身が摂関家に代わって中央政局を執り、幕府の存在も認めながらも、それを圧倒する皇威伸張を企図したのだ。

 次回は、武市の帰京と大抜擢人事、久坂玄瑞らによる三事(言路洞開・攘夷期日決定・人材精選)強請と武市の役割、容堂による土佐勤王党・弾圧の開始、武市失脚の萌芽について、詳しく紹介したい。