「私が死ぬ前に火星まで行かなきゃいけないんです」

 これを受け、ケープカナベラルのキコ・ドンチェフは、第39A発射台でだれも夜間作業をしていなかったのを見たマスクが同じような騒動を起こしたとき武勲を挙げた経験を生かし、有能な部下を起こしてはテキサスへ飛べと命じた。

 マスクのアシスタント、ジェーン・バラシャディアは、まず近くのブラウンズビルにあるホテルの部屋を押さえようとしたが、出入国管理の会議でほとんど満室だったので、エアマットで寝る手配を急いだ。サム・パテルも徹夜で報告や監督の枠組みを検討するとともに、食料の調達にも知恵を絞った。

 マスクが発射台からスターベース本部に戻ったときには、ビル入り口のビデオモニターがいつもと違う表示になっていた。「宇宙船+ロケットの積み上げまで 196時間44分23秒」――秒単位のカウントダウンだ。

 バラジャディアによると、カウントダウンを時間単位やそれこそ日単位に丸めるのはマスクが許さないのだそうだ。1秒もおろそかにしてはならないというのだ。

「私が死ぬ前に火星まで行かなきゃいけないんです。そう強いる力は我々以外にありません。そして、結局のところ、私がその役割を引きうけたりするわけです」

米テキサス州ボカチカの発射台に立つスターシップ(写真:ロイター/アフロ)米テキサス州ボカチカの発射台に立つスターシップ(写真:ロイター/アフロ)

 シュラバ発動は効いた。わずか10日でスターシップのブースターと宇宙船を発射台で積み上げることに成功したのだ。あまり意味がないと言えばない。ロケットは飛べる状態にいたっていないし、積み上げたからといってFAAが急いで認可するということにもならないからだ。

 それでも、難局をあおることでチームを本気の状態に保てたし、マスクも求めてやまない波乱を得ることができた。

「人類の未来に対する信頼を改めて感じることができた」と、この日の夜、マスクは語っている。

 またひとつ、嵐を越えられたわけだ。

ウォルター・アイザックソン
1952年生まれ。ジャーナリスト、伝記作家。ハーバード大学を経て、オックスフォード大学にて学位を取得。米国『TIME』誌編集長、CNNのCEO、アスペン研究所CEOを歴任。主な著作に、世界的ベストセラーとなった『スティーブ・ジョブズ』(講談社)、ノーベル賞を受賞した科学者ジェニファー・ダウドナの伝記『コード・ブレーカー』、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(ともに文藝春秋)など。現在はトゥレーン大学教授。ニューオーリンズに妻とふたりで暮らす。

井口耕二(いのくち・こうじ)
翻訳者(出版・実務)
1959年生まれ。東京大学工学部を卒業後、米国オハイオ州立大学大学院修士課程を修了。大手石油会社を経て、98年に技術・実務翻訳者として独立。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『イーロン・マスク』上下(文藝春秋、2023年)、『Breaking Twitter──イーロン・マスク 史上最悪の企業買収』(ダイヤモンド社、2025年)、『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経BP社、2010年)、『PIXAR』(文響社、2019年)、『ジェフ・ベゾス』(日経BP社、2022年)など。著書に『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋 フリーランスが訳し、働き、食うための実務的アイデア』(講談社、2024年)などがある。